親父のひとり言(5)

(昔を語ろう)part.2 宙を飛んだドジな奴

その一 谷川岳、烏帽子岩のアクシデント

昭和42年だったか43年だったか、痴呆の進んでいる現在、中々思い出せないが、その頃であったことは覚えている。「イケイケどんどん」の勢いで、6月の初旬頃、谷川岳一ノ倉沢、烏帽子岩奥壁、変形チムニーに行った。
夜行列車で土合駅に向かい、多くのクライマーに混じりヘッドランプを点けて一ノ倉沢に向かった。
テールリッジを登り、横断バンドで登攀の準備を済ませ、いざ奥壁に登攀を開始した。当然の如く、リードは私である。
谷川岳岩場は雨季で濡れており、お世辞にも快適といった感じは無いが、こちとらにとっては、そんなことはお構いなし、大した苦労も無く1ピッチ目を終了したかに見えたそのときである。
体を谷側に向けたとたんに足元が滑った。
自分ではセルフビレーをとっていた筈なのに自分の体は宙に浮いてしまった。
セルフビレーを取った筈が実は取ってなかったのである(世の中に良くある「筈」ってやつよ)
後は唯落ちるだけ、私は大声をあげながら墜落していた。取り付きの横断バンドとパートナーの姿が
凄い勢いで迫ってくる。映画やテレビでは感じられない、もの凄い迫力だったよ。「イケネー、ドジッタ」それ以外は何も考える余裕も無い。後は横断バンドに叩きつけられて一巻の終わりとなる筈であったが、直前で私の体は止まっていた。止まる瞬間はナイロンロープがゴムのようにビューンと伸びショックを吸収してくれた為か、身体へのショックは然程感じることは無かった。
中間に取った3箇所のピンのうち1本は抜けていたが2本目が効いて、これで止まったようだ。
自分の気持ちを落ち着けるまでに、しばらくの時間を要した。
肋骨を折ったようだが他にはたいした怪我は無い。ただ落ちた悔しさだけが先に立ち、自分自身が惨めに感じた。
背中の擦過傷とニッカーズボンの股の部分が派手に裂けて大事なお尻が丸見え、ケツを隠しながら土合に下山、山の家で背中の治療をし、糸と針を借りてズボンの補修をして帰宅した。
俺の背中は「赤チンキ」で消毒した為、マッカッカ、これではバレバレだよね。会の先輩には、こっぴどく怒られるは、暫らくは銭湯に行っても注目の的で実にカッコ悪かったな。
それにしても、あれだけ度派手に落ちて、良くこの程度で済んだもんだと今更ながらに感心する。
唯、運が良かっただけの事、死んでいても不思議は無いもんね。

「岩登りで、セルフビレーを確認することなど基本中の基本よ」体で覚えていない証拠だね。
毎日、通勤で電車に乗るとき、駅員さんがホームで指差しをしながら「上りよーし」「下りよーし」車掌さんも「出発進行」と動作と共に口に出して安全を確認してるだろ、そう!それなんだよ、俺達に抜けていたのは再確認だよね。やった筈、やったつもりが命取りってこったね。
「支点よーし」「ビレイよーし」「登りよーし」といった具合にやってみるのもいいんじゃないかな。

「馬鹿は死ななきゃ直らねえ」とはよく言ったもんだが、こういう馬鹿は死んでも直らんだろうな。
お蔭様で、これ以降は岩場では落ちないことにしたので、殆ど落ちていない。

その二 八ヶ岳 大同心正面壁でのアクシデント

昭和41年(1966年)2月14日 
赤岳鉱泉から八ケ岳に行くたびに見る大同心の岩壁は実に目障り(自分が登ってないから)で仕方がなかった。
2日間の休みが取れたので石黒と二人で登りに行った。
夜行列車とバスを乗り継ぎ、美濃戸口から歩き、赤岳鉱泉に到着、休む間も無く取り付きに向かう、
大同心正面壁には既に1パーティが取り付いており、取り付きには更に1パーティが待機していた。
待つことしばし、我々が取り付いた時は既に16時になっていた。
この頃の「馬鹿」にとっては、中止する事も昼夜の区別も無かったらしい。
とにかく登る事しか頭に無い(今にして考えれば本当の馬鹿としか言いようが無いね)
2ピッチ目のオーバーハングを越す頃に日は暮れて真っ暗闇になってしまった。
それでもヘッドランプを点けて、登り続けた。
3ピッチ目をリードで登っていた石黒の姿がヘッドランプの視界から消えてしばらくのこと、
ロープは順調に繰り出され、そろそろビレーポイントに到着すると思った矢先である。
暗闇から何か光が落ちてきたと同時にロープが流れ出す。「そら、おいでなすった」とばかりに流れるロープに制動を掛ける。
私の横で落ちてくるライトの光が止まり、石黒がロープにぶら下がっていた。
彼はビレーポイントに到達し、そこに積もっていた「きのこ雪」を払い落とした瞬間に雪の塊を頭から喰らいそれと一緒に落ちてしまったらしい。
幸いにも外傷は全く無し(しかし頭の中は二人とも、とっくにイカレテイル)。
段違いながらも何とか尻を置けるスタンスでツイルトを被り、足はアブミに乗せた状態でビバークをすることになった。
幸いにも我々は当時では最先端の装備、ダウンジャケット(当時はまだ誰も持っていなかった)とスベアのガソリンコンロを持っていた。
それでもツイルトの下から吹き込む風は冷たくお世辞にも快適なビバークとは言いがたい。
漸く長い夜が終わったものの天気は最悪、アブミ等装備の損失を考えて、(やっと諦める気になり)計画を断念して下山することとした。

後にして考えてみれば、たかが2ピッチ程度ならば、フィックスを張って下降し、安定した場所でビバークして、登り返せばどうといったことはなかった筈だが、降ることなど、はなから考えて無いんだから痛い目にあっても仕方がないよね。これも若かりし頃の思い出さ。

この大同心正面壁は3ヶ月後の5月に同期のメンバーと登ったが、3ピッチ目だと思うが、自分がリードして登った際に、多分パートナーがここで落ちるかも知れないと思い、2本ばかりハーケンを打っておいた。
果たして、予測は見事に的中、でもしっかりと効いたピンで事なきを得た。
これが俗に言う「予見可能性」ってやつかな、パートナーに関しては、一緒に組んで山を登るわけだから出来るだけ相手のことを知っておくに越したことはない「技術、体力、性格、得て不得手、財政力、社会的立場」は当然の事、人間性に至るまで(人間、突然豹変することもあるでな、但し、ややこしい問題に巻き込まれないように、すべからく、ほどほどに)、知り尽くし万全を期して欲しいね。

その三 アルプス、モンブランのクレバスに転落

昭和43年7月(1968年)鵬翔山岳会に入会して5年目の夏にヨーロッパのアルプスなるところに行くチャンスが出来た。
パートナーは2年後輩の会員、初めての海外の山、中学生の時と思うが、社会科の教科書に載っていた「マッターホルン」に魅せられたことと、自分の家の裏山が八海山だったこともあり、私の山登りが始まった。
資金が乏しい事から、モンブランの麓、シャモニーの町外れでキャンプ生活をしながら登山をしていた。
アルプスの山は当たり前だが日本の山よりも高く、日本の山には無い氷河を持っている。
問題はこの氷河であるが、日本の三大雪渓なんてもんじゃない、とにかくでかくて長い、このスケールには圧倒されるが、氷河の知識も経験も無く「イケイケドンドン」が早速ドジをしでかすことになった。
シャモニーに来た以上は、まず最高峰の「モンブラン」(お菓子ではない)を登っておかんことには話しになるまいと思って計画した。
バスと登山電車を乗り継ぎ「エギュードグーテ」の小屋に泊まった。翌日モンブランの頂上を目指したわけだが、天候は最悪、バローの避難小屋で登頂は断念せざるを得なくなり、偶々巡り合った日本人三人のパーティと合流、下降路をボゾン氷河に求めた。このときの私には氷河の知識は何も無く「氷河は雪渓を大きくしたようなもの」としか考えてなかった。
然し実際に下降を始めてしばらくたつと縦横無尽に走るクレバス(画材ではない)にしばしば立ち往生することとなり、僅かに残っているトレースを頼りに下降を続けた。
予め亀裂の開いているクレバスは目視できるから問題ないが、亀裂の上に雪が乗り、見た目では判断の出来ないクレバス「ヒドンクレバス」が最も危険である、しかし事もあろうにこのヒドンクレバスに落ちてしまったのだ。常に格好良くリードしていた私が、ここならば大丈夫と思って体重を預けた雪面が、いきなり足もとがなくなり宙を飛んで転落していた。
幸い10m程の転落で氷の棚があり、そこで止まった。
唯、一緒にロープを組んでいたパートナーも続けて落ちて来て私の頭の上にいる為、身動きが出来ない。
おまけに、クレバスの壁は垂壁かややオーバーハング気味、たかだか10m程度でも簡単には登れない。
幸いに同行していたパーティのロープをクレバスの上部から下ろしてもらうことができ、まずはパートナーを引き上げてもらい、次に自分を引き上げてもらった。
付近を下降中の登山者にヘリコプターでの救助を要請して、待機すること数十分でヘリコプターが到着した。(日本も最近、ヘリコプターでの山岳救助が行われているが、当時は凄いと思った)
全身打撲のパートナーはヘリコプターに収容されたが、かすり傷一つ負っていない私は乗せてもらえず、
ケーブルの駅まで歩くこととなった。
今回の場合、偶々、浅いクレバスで、しかも内部に棚があったから良かったものの、クレバスによっては内部が大きく広がり100m以上の深さを持つものも、ざらにあることを考えると、これも又、運が良かったと言わざるを得まい。

小説で読んだことがあるが、アルプスのクレバスに転落して行方不明になった恋人を、その氷河の末端で待ち続けて60年だか70年後に再会したなんて話もあった(泣かせるね)。無知な時ほど怖いものは無いからね。
この無鉄砲で向こう見ずな失敗で氷河の恐ろしさを知り、当たり前の事だが、氷河での行動には極度に神経を使うようになった。
其後、マナスル、エベレスト、ダウラギリとヒマラヤに行く事になったが、氷河でルート工作を得意とし、率先して行った。(一部では、俺のことをアイスフォールの神様と言ったとか、言わなかったとか)この経験が多いに生かされたと思う。
お蔭様でヒマラヤではヒデンクレバスを踏み抜くようなドジはしなかった(当たり前かな)。

ここまで書くと、まるで「馬鹿がドジ」を文字にしたようにしか見えないね。落ちることは大変な事よ。
だいいち、あらかじめ計画して落ちるわけじゃないから、心構えが出来ているはずもないしね。
こんな事は多いに経験しなさいなどとは言えないね。何故ならば、そこから先は運しかないと言う事を自覚することだね。落ちた時の事を考えて、色々武装して登っているけど、落ちてしまった後の事って考えた事はあるかい、もっとも生きていての話だが。
落ちて帰ってくるときの惨めさ、体も精神も、おまけに服装も、少しも格好良くないよ。

一昨年、仕事でニュージランドに行った際に「バンジージャンプ」なるものを進められたが、どうも落ちることに関しては抵抗があり断ってしまった。彼らと違い、落ちることに恐怖はあっても快感などあり得ないのが、私の実感「冗談じゃねえよ、やなこった」。

読んでいただき、多少は糞の役に立ったかな、書いている自分も思い出して「ゾッ」として、けつの穴が縮んでくるよ。
落ちた時のためにパートナーとロープを組むわけだが、お互いに転落を止めるだけの技量が無かったら、唯の気休めよ、気休めでも無いよりは、ましかな、でも一蓮托生で一緒に落ちたら全く意味が無いよね。
とことんパートナーと運命を共にするつもりならば、又、話は変わってくるが、それならそれで人には迷惑を掛けないようにしなくちゃね。とにかく、落ちたら終わり、落としても終わりだからね。

今回の転落編はこれぐらいにしておこう、これ以上書くと自分の馬鹿さ加減が知れてしまう感じもするし、
読むほうも呆れるだけだもんな。
次回は何を書くかな。

(記: 清水)

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