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2006年7月17日 (月)

屋久島日記

2006年5月、私は牧田さんと屋久島を旅した。その強烈な思い出について書きたい。
行程記録は下記に留め、本文を随筆形式で追記していく形を取りたい。
客観的な記録が最小限になる事をお許しください。
2006年6月 後藤

目次
島へ、いかにしてたどり着くか

そして歩き出した

木に囲まれた夜

白谷雲水峡突破

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高みに上るには

消耗

おっちゃん走れ!

屋久の水

事故

大木の元で

雨が降り出す

逡巡

Ca280024

仲間

終着地

バックパッカーになる

歩きまくる

やしまにて

デコトラ特急島一周

最後の晩めし

旅の終わり

行程記録
4/29
羽田空港→(JAL)→鹿児島空港→(高速バス)→鹿児島東港→(鹿児島商船 ジェットフォイル)→宮之浦→ヤクデン→楠川→白谷雲水峡→野営
4/30
白谷雲水峡→白谷山荘→辻峠→トロッコ道→ウィルソン株→縄文杉→野営
5/1
縄文杉→高塚小屋→新高塚小屋→宮之浦岳→花之江河→淀川小屋
5/2
淀川小屋→ヤクスギランド→〔タクシー〕→安房→〔レンタカー〕→尾之間温泉→・・・→安房→やしま
5/3
安房→・・・島の名所・・・→安房→宮之浦
5/4
宮之浦→宮之浦港→(鹿児島商船 ジェットフォイル)→鹿児島港→鹿児島市内→(高速バス)→鹿児島空港→(JAL)→羽田空港

メンバー
牧田(リーダー・食料)、後藤(荷物)

足跡

Photo

コメント

旅の終わり

5/4朝
朝起きるとそこはとってもいいところだった。海に面していてトイレもシャワーも有り。さわやかな朝の日差しの中で僕らは島での最後の飯を作った。
なにくわぬ顔でテントを撤収すると、宮之浦の港までぶらぶら歩いた。島にいるのもあと数時間本当に名残惜しい。
物産店で、昨日の料理屋のマスターに口利きしてもらったなまり節を手に入れる。島のおばぁが作っている特別なやつだ。たまねぎと和えてもおいしいし、ラッキョウと和えて寝かせて置いたものは本当にうまい!

海は穏やかで、鹿児島までほとんど揺れなかった。鹿児島に着くと、時間が有ったので並んでラーメンを食ったり、さつま揚げを買ったりした。帰路も飛行機だったので、その日の夕方には羽田でビールを飲んでいた。

旅を終えてからこの記事を書き終えるまでに半年以上の時間がたってしまった。でもなぜか記憶は鮮明だ。僕は時々思う。

ピークハントが”正しい”山登りなのか?

最後の晩めし

5/3夜
今夜は牧田さんの知り合いと夕食を取る事になっていたが、急に都合が悪くなってしまって、僕らだけで食べに行く事になった。しかし予約している店は北の端の宮之浦にある。僕らは安房にいるのに、もうバスは終ってしまった。歩ける距離ではもちろん無い。
散々ためらった末に僕らはタクシーと言う反則技を使ってしまった。
店は宮之浦の町から川を挟んで少し離れた所にあった。汗臭い格好でザックを担いで闖入するにはちょっと気が引けるようないいところだ。
カウンターに座らせてもらって、首折れサバと、でっかいトビウオを目の前でさばいてもらった。旨すぎる。マスターも今日来るはずだった牧田さんの知り合いの人を知っていて、話は弾んだ。隣の社長さんには三岳を一本つけてもらった。なんていい人達なんだろう。
だいぶ酔っ払って店を出ると、今夜のねぐらに向かった。ちょうど新月だったので、闇夜に乗じてキャンプ場にテントを張る。

デコトラ特急島一周

5/3朝
翌朝、なまり節とラッキョウでご飯を頂いた。御兄さんが鹿児島行きのトッピ-に乗るのを見送った後、昨日僕らの搬送に使われた軽トラを半日貸してもらう事が出来た。
かっこいい軽トラだ。フロントガラスにはデコレーション用のスモークが張ってある。ハンドルカバーは白の極太仕様だ。シフトレバーは紫のクリスタルになっている。軽トラとはいえトラックのはしくれ、屋久島仕様のデコトラなのだった。
まづ安房から北に向かい、宮之浦の港に行く。豪華客船が入航する予定と聞いて見物に行ったのだった。でもめぼしい船は来ていなかったため、あきらめてそのまま西に向かう。
一湊を過ぎると、島の西側に出て、断崖沿いの道となる。口永良部島を眺めながらの旅だ。
やがて美しい浜が現れる。永田のいなか浜だ。島全体が山のような屋久島には浜そのものが少ないけど、永田のいなか浜の美しさは有名だ。赤海亀も産卵に来ると言う。浜には他にもいくらか観光客がいて、定番通り写真を取ったりしていた。せっかくなので僕らも5分位にわか観光客になってみた。
永田から先は西部林道に入る。栗生まで車で30分以上、本当に集落が無い。定番通り屋久島灯台と大川の滝を見に行く。灯台には観光にきた女の子グループがいたが声も掛けず。忙しかったしね。。。トレッキングをしている連中がいたので荷台に乗るかと声を掛けてみる。がんばって歩くらしい。お先に!
栗生の集落に着くとなぜか気持ちも落ち着く。ハイビスカスが咲いていて南国なんだなぁ。。。高台にあるフルーツガーデンに寄ってむらさきいもアイスを食べる。決して大きくは無いがとっても開放的でいいところだ。今度は女の子と行きたいな。そういえば僕らは入場料払わなかったような。。。
栗生からまたしばらく車を走らせると、海中温泉がある。磯に温泉が沸いているのだ。しかし見物人が多すぎる!(僕らもそうだったけど)。入る気も起きなくて、昨日の尾之間温泉に行く事にした。
尾之間温泉でおとといのガイドのおっさんと鉢合わせする。おっさんはクライアントの人と山行を終えて温泉に入りに来たところだった。声を掛けたら覚えてくれていたが、軽トラを見て”?”といった顔をしていた。
温泉に入った後はもう、ただ、車を走らせた。車を返さなきゃいけない時間だ。ガソリンを満タンにして返す約束だったが、ガソリンスタンドはどこも閉まっていた。昨日5時間歩きとおした道もわずか30分で走りとおす。
ガソリンスタンドを探してはるばる北へ、空港近くに最近出来たセルフスタンドへたどり着く。滑りこみセーフで給油出来たのはいいけど、店員さんが給油方法を1から10まで教えてくれた、、、セルフスタンドの意味が無いんじゃ。。。?
安房に戻ってママに車を返すと、僕はまた路頭に迷ったバックパッカ-になった。

やしまにて

5/2深夜
21時頃、ようやく安房の夜景を見ることが出来た。安房川に映る夜景は本当にすばらしい。
高台にこっそりキャンプ出来そうな空き地があったが、まずは夕飯を取りたかったので、安房の街に下りた。遅い時間だったが各種飲み屋さんは開いていた。ぶらぶら歩いた結果、以前来たときに顔を出した”やしま”ののれんをくぐった。小さい店だが観光客より地元の人がほとんどでとっても雰囲気が良かったからだ。
店には一家族がテーブルについていて、カウンターに兄貴さんが一人いた。体積は人一人分はあるザックを運び込んで、カウンターについた。
カウンターはやっぱりいいものだ。マスターと、それから地元の兄貴さんと会話が始まる。そのうちに泊まる場所が無いのもばれてしまった。兄貴さんはママの息子さんだった。若造二人に屋久島の、薩摩人の心意気を語り、三岳(なかなか入手できない芋焼酎)を1本開ければ家に泊めてやる。と1本つけてくれた。
飯は煮付け、とびうおの刺身、首折れサバの出てきた辺りで三岳にノックアウトされた。

気がつくと時計の長針が一周位しており、おれはカウンターに復活した。いつのまにか店内には学生風の奴ら(年下はみな”奴”だ)が二人いた。もうろうとしてて良く分からないが・・・どうやら今山から下ってきたらしい(今?こんな遅くに?)。一人はかなり疲労しているようだ。ママがとっても心配している・・・前来たときもランニングシューズを濡らしてトロッコ道を歩いていたのがいたなぁ、あんな感じかな。むしろ下りてこられただけ本当に運がいいよ・・・
三岳はかなり減っていたがあと1/3はある。男として兄貴に応ねば、これは飲まなきゃ...いかん。(ほとんど何も考えてはいない)

いつのまにか学生風の二人はいなくなり(宿に行った)、牧田さんはおれの寝ている間においしいお茶漬けなどいただき、店もお終いになった。
ふらふらしながら軽トラの荷台に載せられて、ママと兄貴の家に二人は御厄介になった。

歩きまくる

5/2昼
巨大なモッチョム岳に見下ろされながら、1時間以上はぼうっとしていたのだろうか。日が少し弱くなってきたので歩き出した。目的地は安房の”あたり”、泊まる場所も決めていなかったので”その辺で”夜を過ごすつもりでいた。
安房まではヒッチハイクできれば・・・なんて考えていたが、僕がビビったり(馴れてないんです!)、行き交う車がレンタカーばっかりだったりしてなかなかつかまらない。地元のおばちゃん達は簡単に捕まえてるのに!後で思うに吹っ切れるというか、順応できていなかったのだろうか。

(女の子に対する態度と同じですネ!)

そうこうしてるうちに最終のバスは目の前を過ぎていってしまった!
そして辺りは暗くなりだしてしまった!

仕方が無いので安房まで歩く事にした。地図で見ると・・・長い!!
あとは車の機動力を嫌というほど思い知らされるはめになった。
あまり辛かった思い出は無いのだが、とにかく長かった。口数も少なくなっていたが、景色も見えないため歩くのには完全に飽きてしまって、あとどれくらいで着くか?ばっかり考えていた。

真っ暗でとても静かな夜だった。

バックパッカーになる

5/2昼
僕が湯船から上がるとき、牧田さんはちょうどオジィから話し掛けられようとしていたところだった。彼が男湯のドアを空けるまで、僕よりも1時間は余計にかかった。話し
たのは島にあこがれて都会から移住してきた人達の顛末やら、土地の値段やら・・・こういった話が出来るのは彼の才能だ。
外に出ると空は青く、ハイビスカスは赤く、南国に来たことに気づいた。巨大なホテルやモッチョム岳を眺めたり、太陽にジリジリと焼かれたりしながら、僕らは再び歩き出した。バックパッカーとして。
まだ飯にしていなかったので、国道沿いのAマートでランチを買う。
まずビール。
僕はあく飯、牧田さんはさつま揚げも買った。ランチ場所はスーパーの駐車場だ。少々日当たりが良すぎるが、南国の青い空が爽快だ!昨日の悪天候が嘘のようである。サルもこちらを眺めている。駐車場でザックに座って酒を飲んでいるなんて、いつもならビビってしまう行動だが、いいのだっ。バックパッカーなのだから!
ランチ後は何も急ぐ事が無かった(はずだった)ので尾之間の町をしばらくぶらぶらした。が、あまりに暑いので公園の日陰でこうら干しに落ち着いてしまった。長く歩いた後なので、里に降りると自分の靴下がやたらとクサかった・・・

終着地

5/2昼
僕たちが降ろしてもらったのは尾之間、屋久島の一番南にある町だ。今日辿れなかった尾之間歩道を下りきって、里に下りたところに尾之間温泉がある。相棒の牧田さんの”おれの入った中で3本の指に入る温泉”。トレイルを下りきると温泉の前の駐車場に出るこのセンセーショナル。石けんなど勿論置いていない不便さ、シャワーなど一つしかない。体は湯船の横で床に座って、温泉で洗うものなのだ!(当惑しました)
ちょうど午後2時頃で地元の人しか居ないのどかさ、牧田さんは仙人風のオジィに捕まって1時間は出てこなかった。そして体がぬるっとするこの泉質。

仲間

5/1夜
小屋とはいいモノだ。人がたくさんいる。それは思いを共有出来る仲間だ。
その日淀川小屋には縄文杉の前で話したガイドのおじさんがいた。宮之浦岳のあたりで話した兄貴さんもいた。骨董品のプリムスから話が広がって、夜が更ける。
翌日、夜に話し込んだヒゲのおじさん、チャリウェアのお兄さん、白髪のお父さんと5人で山を下る。少し歩けば林道に出た。ここから林道を下ればヤクスギランド、南方向に分かれる道を行けば尾之間歩道。当初の計画では尾之間歩道を歩ききって屋久島を縦断する計画だったが、今回はこれで中止とした。天候も怪しかったし、昨日の雨の影響も心配だった。土の道とはもうさよならだ。
あとはダラダラとした林道をダラダラ下るだけだ。仲間とおしゃべりをしたり、観光バスに手を振ったりしながらひたすらダラダラあるいた。どうやら観光バスの人達はサルより珍しいモノを見たようだ。(だれもエサはくれなかったケド)サルの親子もいて、内心ドキッとしたが何事も無かった。群れに遭遇しなくて良かった。彼らも避けてくれたのかも知れない。
じきに谷の向こう側に太忠岳のオベリスクが見え、ようやく通り過ぎ、振り返るようになる頃、ヤクスギランドへついた。ここまで下ればもう人間の世界だ。
ヒゲのおじさん(お名前を忘れてしまった!)はヤクスギランドまでタクシーを呼んでいて、ご厚意で乗せてもらってしまった。ありがたいことに何の苦労もしないまま安房の港についた。
おじさんはここでレンタカーを予約していた。僕たちはなんとレンタカーにまでちゃっかり乗せてもらってしまった!何もお返しできなかった、せめてもう少しおもしろい話がしてあげられたら良かったのに・・・

連絡先も聞かなかったが、もし僕たちが同じ事を他の人にしてあげられたら、少しはお返しになるだろうか。

5/1夕方
さて、私はイビキをかくことで悪名を馳せている。山間部ではなぜか鼻が詰まり気味でイビキのベストコンディションが形成されるのだ。甚だしいときは寝ぼけながら自分のイビキを聞いていたこともある。たいていテントではみんな熟睡していて気にしないで居てくれるのだが、今回は違った。どうやらテントの相棒はさんざん悩まされた様だ。

そして淀川小屋。どうやら私の周囲数メートルは騒音被害甚だしかった様である。夜に私がふと目を覚ましたとき聞こえたイビキは自分のモノだったのか、相棒のモノだったのか、それは永遠に分からない。一つ確実なことは寝静まった後でも大変うるさいテントだったということだ。
屋久島旅行者および動物のみなさま、ご迷惑をお掛け致しました。

逡巡

5/1 夕方
淀川小屋は広くてきれいな小屋だった。気温も湿度も高くて肌寒い夕方だった。ザックの中身までずぶぬれの二人だったが、お茶を沸かしてようやく人心地が着いてきた。一番の関心は明日、尾之間歩道を通って尾之間まで歩き通せるかどうかだ。問題は道が整備されているかどうか、それと川を渡渉出来るかどうかだ。牧田さんが以前来たときは道がほとんど失われていて遭難しかけたという。でも、おととい知り合ったガイドのおっさんも淀川小屋に来ていて、道は整備されたという証言が得られた。歩けるとすると、後は川の問題である。今日さんざん雨に降られた僕たちは明日のコンディションを楽観出来なかった。濡れることを考えるだけでも嫌だったので、さんざん迷ったがむやみにつっこまない事に決めた。
当初は宮之浦港の0mから宮之浦岳の1,936m(+1m)に登り、尾之間の0mまで、屋久島を完全に縦断する計画だった。この計画が達成できないことになるが、まあいいのだ。
(と、すっぱりとは諦めきれず、次の日尾之間歩道の入口まで行ってみたり、降りてからの晴天をうらめしく思ったりした。)

消耗

5/1 夕方
山頂は風が強く、長く休んでも雨と風が体力を消耗させるだけだったので、すぐに出発した。
山頂には運動靴だったり、ジーパンだったり、ビニールのカッパだけだったり、明らかに軽装の人が多かった。自分の体力がいかに簡単に消耗していくのか知らないか?僕だってよく分かっていないが、自然に対しては”逃げ腰”な位で良いのだ・・・
僕は荷物になるからといって撥水性のウエアだけ持って来たので、汗が飛んでいかない。汗が蒸れるくらいならまだいいが、困ったことにウエアの中に水分がとどまって外にどんどん熱を奪って行った。アクリルのシャツも体を湿った状態にはしないものの、あまり保温してくれ無い(ユニクロ製だったし・・)。結果的に体温を維持するため、自身からの発熱ばかり多くなって、行動しながらも通常よりかなり速いペースで体力は消耗して行った。
なんと牧田さんは半袖しか持ってきていなかった(雨ガッパはGORE-TEXなのに)。彼の消耗状況は自分よりもっと悪く、一度小休止をしなければならなかった。
(最近別の山行で体を濡らしてかなり消耗した人が居たので一応書きますが、この状態を持続させるとホントに危険ですよ!)
歩くのに目一杯で一度けもの道に入ってしまい、うろうろしたりしたが、淀川小屋まで1回休憩しただけで歩き通してしまった。
美しい湿原の花之江河も、小花之江河も、そのまま通過してしまった。小屋に着く頃は二人ともへばっていて会話も少なかったが、全ての困難だった記憶は小屋の手前の橋から見た淀川の透明な水面に吸い込まれて行った。

川は冷たく清らかで、そして美しすぎた。

高みにのぼるには

5/1 昼
さて、山頂に着いたのですが・・・眺望が無くて何となく物足りない。相棒の牧田さんは過去2回とも快晴だったのに。屋久島の稜線からの眺望は最高だったゼ!と言っていたが残念、今回はアメオトコと一緒ですからね。
さて、奢り高き人間はより天上に近づこうとする。古代バビロニアより続く我々の伝統である。僕もその悲しき慣習に従おうではないか。とりあえず岩の上に立ってみる。これで僕の帽子が島で一番高いところにあるわけだ。ところが、よく考えてみると、誰だってここにたてば1,936mへ到達できるのだ。これはいけない。

ではこうしよう。自分の足でもって海辺の0mから1,937mまで到達した訳だ!
証拠写真も用意してこれでバッチシである・・・。
(この日、1人の男が事もあろうに山頂の岩で2回も飛び跳ねた後、人目を気にするかのようにそそくさと去っていった。)

雨が降り出す

5/1 朝
朝起きると、すでにあたりは明るくなり始めていた。
急いでお湯を作って朝飯にする。早く撤収しなければ、見つかるとうるさいからね。
高塚小屋からは、まだあまり出発していないようだった。昨日見知った人もいる。おはよう、お先に!
新高塚小屋に着いた頃には全ての人が出発していてヤクシカの親子しかいなかった。人間に馴れすぎている姿に悲しくなる。ここは君たちの領域で、僕たちはちょっとの間、居させてもらっているだけなんだ。どうしたらお互いの領域を守っていけるのだろうか。思案していると胃腸の働きも活発になってきたので、小屋のトイレを借りる。
進むに連れて地勢が変わってきて、木は矮小になり下草が増えてくる。視界が開けてくると笹がなだらかな山肌を覆い、白い岩が点在する見たことのあるような、無いような世界が広がる。宮崎駿の描く様な空間。晴れていると海の向こうに種子島が見下ろせるそうだけど今日は曇り、徐々にガスが出てきた。
進むに連れてガスが霧になり、徐々に重みを増してきた。風が強くなってくると気温も下がり、山頂に着く頃にはすっかり雨中山行になってしまった。

大木の元で

4/30 夕方
ヘリの爆音が聞こえなくなる頃にはあたりは暗くなっていた。
骨董品のプリムス”ハンター”に火をおこして夕飯とする。
縄文杉の前は広々とした木の展望台になっていてちょうど良い食事場所と寝場所を提供してくれた。
いくらか雲が出てきたのか、今夜は漆黒の闇に包まれてしまった。縄文杉の存在感は感じられなかったが、何も聞こえない暗闇は人間の土地でない心細さをかき立てる。
テントの中だけは黄色い光のこぼれるシェルターだ。夜景はこんな光点の一つ一つから構築されている。
僕たちはその中で強い酒を飲み、大声でしゃべり、屁をこき、大イビキをかいた(やったのは僕だけではありません)。やれやれ。

事故

4/30 昼
ウィルソン株には予想通り沢山のツアー客がいた。大学生らしきグループや、中高年の団体が多い。みんな荒川登山口から来た人達だろう。多くはガイドに連れられている。

まずは神様に御参り。

ウィルソン株の手前辺りから、ガイドらしきの人達が緊迫して無線連絡を取っていた。ツアー客もウィルソン株を動かず、空気が少し張り詰めているようだ。ガイドの言葉が緊張している。
休憩しながら牧田さんが何かあったらしい事に気づいた。近くのガイドの親爺さんに状況を聞く。

人がこの先で落ちた、ツアー客のようだ、状況は良くない、ヘリを呼んでいる、動かせるか分からない...

若いガイド達が緊迫してここで待機している。でも自分達に出来る事は何も無い事も、ぼんやり感じていた。
牧田さんが言った。ここに留まっていても仕方ない、行こう。

ウィルソン株から大王杉までは、何回か急な階段を登る事になる。何パーティかにすれ違って、3回目くらい急な登りで、一つのグループがあった。木道の脇に小父さんが倒れていて、口にマスクのようなものが掛かっている。ビニール製で内側に水滴が付着しているのが見えた。
隣で小母さんが、泣いている。

お父さん起きてよ!起きてってば!

一体自分達に何が出来ただろうか。まじまじと眺めていた訳ではない。ずっと下を向いて、通り過ぎた。でも何が起こったかは全て分かったし、一生忘れられないだろう。

ヘリの音は、僕らが縄文杉について暫く経った頃にやっと聞こえた。微かに、そして突如頭上から。鹿児島から飛んできたのだろう。民間ヘリのようだった。
その人はツアー客だったという。大きな団体だったが、ガイドの人数が少なく、パーティをとても見きれない状態だったようだ。彼らが来た荒川登山口からのコースは歩きやすいが、とにかく距離が長い。ガイドも時間を急ぐあまり、速いペースで引っ張っていたようだという。ペースが遅れ、先頭が休憩を終える頃に、追いつく人が出ていたようだと別のガイドが言っていたが、ガイドが悪い訳ではないだろう。一人の人間に20名以上の安全を約束させるのは公正ではない。いいところ5名から、本当に過酷な状況なら0名。
ガイドがもう少しああしたら。その人がもう少しこうだったら。という思いばかり湧いて来る。もしかしてもう少し涼しかったらその人もバテなかったかも知れない。そんな悪条件が重なって、その人は縄文杉からの帰りに足を滑らせたのだ。

この文章を書きながら、21:00頃同じルートで遭難が起きた事を知った。遅れた一人が来ないのだという。その人が無事かどうかはまだ分からない。

多くの人が訪れるようになった屋久島。でも自然が人に優しくなった訳では決して無いと、今改めて知る。

屋久の水

4/30 昼
小杉谷側に山を下ると、トロッコ道に出る。荒川登山口からの登山客はとっくにウィルソン株辺りまで行ってしまったのだろう。人通りの少ない道を上流に向かう。
大株歩道入口には沢山の登山客が休憩していた。まるで高尾山に登ったような込み具合だが、人込みに愚痴を言っても仕方あるまい。自分も人込みの一部なのだし、それほどすばらしい所って事だ。それにしても軽装の人が多いのが気に掛かる。デイパックだけだったり、運動靴だったり。周りの軽装ぶりから浮き立つバカでっかい2つのザック。
大株歩道はほとんど木道になっていて歩くには何も問題ないが、樹林帯の登りに大きな荷物は疲れるものだ。道沿いの清流で休息を取る。木の下に湧出口があるようで、湧水で喉を潤す事が出来た。水はほのかに甘かった。
この島の川は恐ろしく澄んでいる。だが、そこには魚はあまり棲まないという。花崗岩質の砂礫層が雨水をすぐに透過させてしまうので、ミネラル分や有機物があまり含まれないのだ。眺めている僕らにとっては、屋久の沢は美しい。でも水に棲む連中には過酷な環境。そして、沢に足を踏み入れた者全てに島が過酷な課題を要求する事を僕らは知っている。自分のレベルではしばらく太刀打ち出来そうに無い。

おっちゃん走れ!

4/30 昼
小一時間歩くと白谷小屋に着く。ここまでハイキングで上がってくる人も多く、軽装の人が多い。少し早いがお茶の時間にする。こんなにのんびりしてていいのかな。いいのだ、東京にいる訳じゃないんだから。
ここは白谷小屋、おれが去年の正月を迎えたところだ。そのときは一人でチキンラーメンを喰っていてうちの会の九州支部の人に拾われたんだっけ。それでこの会に顔を出したんだから、めぐり合わせってやつはほんとに分からないものだ。

おれたちの荷物を見ておっちゃんが声をかけてくる。

でっけぇ荷物だなっ。どこまで行くんだ?おれにももたせてみろ、あぁまだ軽ぃよっ。30キロも無いだろ、25キロ位か?おれも若い頃はもっとしょったんだ。
 まぁ、昨日は白菜も入ってたし・・・

先に出発したが、辻峠を越えて辻の岩屋辺りでおっちゃんに追い抜かれる。なんとこんなところで走っているではないか。と、思うとその先で立ち止まっている。太鼓岩に行くつもりで奥さんを残して走っていたという。太鼓岩はさっき通り過ぎた辻峠から下りないで分岐していく道を行くんですよと教えると、駆け上っていってしまった…
昨日が50歳の誕生日だったとの事だ、元気があり過ぎる。

白谷雲水峡突破

4/30 朝
6時頃起床、相棒は寝起きが悪いのでしばらくほっておく。外はすっかり日が出て明るい。沢筋に張っていた天幕は無くなっていた。きっと寝坊助共を尻目に先に行ってしまったのだろう。
相棒にいびきの音量についてブウブウ言われながら昨晩の鍋で朝飯を取る。おれは牧田さんのいびきの方がでかかったと思うんですがねぇ、ハハハ。
幕営地から50m程登るとすぐ車道に出た。ほんとは指定地以外は幕営禁止なのでおっかなびっくり。でも昨日は緊急事態でしたから、ハハハ。

少し歩いて白谷雲水峡の入口まで行くが、管理費を払うと知ってもったいなさに引き返す。なに、裏側から入ればいいんです。
自然の土地に柵を張って金を取るとはけしからんと言う不心得者二人。

雲水峡を抜けると随分人が減る。透き通るような初夏の緑。

木に囲まれた夜

4/29 夜
19時頃、日が落ちて進めなくなった。白谷雲水峡の手前の沢沿いにて幕営することにした。
近くにもう一組のキャンパーがいた。沢筋の暗い林にタープを張っている。その辺りはじめじめして気が滅入りそうだったので、少し小高くて開けた場所にテントを張る。いくら雨が降っていなくても沢のすぐ近くにテントを張る気にはなれなかった。増水すればひとたまりも無い。
鹿児島で買った黒豚(もちろん生のパック)と白菜で鍋にする。
何というすばらしい夜であることか!
屋久杉の黒いシルエット、360度木に縁取られた星空、天の川、虫の音と静けさ、ろうそくの明かり、うまいめし、最高の仲間、500mlアサヒスーパードライ。

そして歩き出した

4/29 午後
15時(頃)屋久島宮之浦港着。観光客の雑踏はあっという間にバスに吸い込まれ、そしておれたちは歩き出した。まず燃料を入手しなければならない。
港から県道に出て右手にあったホームセンター(ヤクデン)にてガソリンとガスカートリッジ、焼酎を入手。
楠川まで、国道沿いを歩く。8年前よりずいぶん都会になってしまったと牧田さんが言う。彼は島の人の温かい心を本当に愛している。彼が以前来たのは8年前、世界遺産登録直後だ。今は観光客が相当増えただろう、民宿の看板が目立つ。島の人の暮らしも相当変わったのではないか。島が豊かになるのは無条件にいいことだ。でも風景とともに島の温かさは変って欲しくない。
それにしても南国の日差しは強烈だ。2時間程で楠川に着く。日が傾いで来たが進めるところまで進んでおきたい。暗くなるまで歩く。

島へ、いかにしてたどり着くか

4/29 朝
東京から屋久島へは、飛行機で羽田から鹿児島へと飛び、飛行機か船で島に入るのが一般的だ。
今回はジェットフォイルのトッピーを使ったので、鹿児島空港から鹿児島市内に入り、鹿児島東港のトッピー乗り場から乗船した。
旅は、朝、目覚めたところから始まる。この目覚めで何度後悔したことだろうか。昨日まで二人とも仕事に追われ、しかも片方は夜飲んでいた。
今回は・・・問題なし!6時にお互いの安否を確認する。
食料は船の時間待ちを利用して鹿児島市内で買い出す。デカ過ぎるザックを背負ってスーパーでおばちゃんを掻き分けるのは少々骨が折れる。今夜は鍋ですか?エッ黒豚のパック買ってくんですか?トッピーの時間が・・・
起きて、乗って、買い出して、また乗って・・・島への障壁は多い。

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