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2008年1月 7日 (月)

正月合宿

日程: 2007年12月30日(日) - 2008年1月2日(水) 前夜発
山域: 槍ヶ岳中崎尾根(北アルプス)
参加者: 坂田(L)・清水(SL)・飯田・塩足・志村・大和田・鈴木(泰)
行程:
第1日目: 新穂高温泉(7:20) - 白出沢出合(10:17) - 滝谷出合(12:41) - 槍平(15:30)
第2日目: 槍平(8:30) - 奥丸山から少し下ったところ
第3日目: 奥丸山から下ったところ(7:22) - 200m程度前進 - 撤収(9:00) - イヌノクボ沢2200m付近(15:05)
第4日目: イヌノクボ沢2200m付近(7:10) - 白出沢出合(10:25) - 新穂高温泉(11:36)

今回の山行は出発前から、暮れから正月に掛けての悪天候の予報が報じられていた事と、我々の入山地域で雪崩事故が発生した事もあり、留守本部をお願いした安達会員を始め会員及び関係者に心配いただきましたこと、御礼を申し上げます。

12月29日(土) 現地は雨

大和田車隊(武蔵境発)・志村車隊(船橋発)の車2台が談合坂サービスエリアで落ち合い、新穂高に向かって20:30に出発。

12月30日(日) 雪

0:30新穂高温泉に到着、天候は雨(予想以上に気温が高い)。テントでの仮眠を予定していたが、冬用テントでは雨は凌げない。たまたま開放されていたバスターミナルの待合室(床暖房付)にて快適な仮眠を取る。駐車場は冬期間のみ登山者用に無料スペースが設けられていた。先着の1パーティの他に、後から到着した1パーティ程が同じ場所で仮眠を取った。
7:20 朝食後、新穂高から槍平に向かう3パーティ程が前後して出発(天候は湿雪)。
10:20白出沢出合を通過、涸沢岳西尾に向かう1パーティと分かれる。白出沢出合付近で漸く湿気の無い雪に変わる。この辺で積雪は50~70cm、但し旧雪の上に30~40cmの新雪が積もった状態で特に問題なし。先行パーティのトレースがありラッセルの苦労は、さほど感じられないが、スノーシューのチームがステップを崩して先行した為、思ったよりもズブリ、時間が掛かる。
3s ブドウ谷、チビ谷は何れも雪崩によるデブリがあり、この上を通過する(但し、何れも全層雪崩で発生後1~2日を経ていることから、前日までの高い気温と雨によって発生したと思われ、雪崩のブロックも硬く締まっており、当日の新雪による表層雪崩の可能性は少ないと思われた)。
滝谷出合から先は前日のものと思われるトレースがうっすらとあるのみでラッセルが必要となる。スノーシューのチームが先行して行く。斜面の通過には時間を費やしていたが、平地や暖斜面では効果があるようで快適に登っている。我々も出合を過ぎた「故 藤木久三氏のレリーフ」(第1次R.C.Cの設立者で滝谷登攀の先駆者、孤高の人の主人公である加藤文太郎氏の恩師)の前でワカンを装着して登る。出合上部で新雪の積雪は50~60cm。右岸の枝沢からのデブリあり、先行パーティが夏道の斜面を途中まで登り立ち往生していた。
我々は、このパーティとは別の、先行している4人チームの後を追うように沢床に降り、途中で彼らと先頭を替わり槍平に向う。沢床は風が舞う為、風の向きが一定せずブリザード状の天候で雪煙が顔面に吹き付ける。後続のパーティを加えると総勢30名程がこの日に入山した事になるが、ワカンを装着していないパーティが多く見られた(持参しているのかどうかは不明)。
2s 15:20槍平の幕営地に到着、他のパーティも次々に到着する。
大和田さんが先行確保した幕営地は、槍平小屋の東面、北に冬季小屋と2面を障害物が遮り、東面は南岳からの森林帯があり、比較的安全性の高い場所と思われる(但し、風の向きによっては雪の吹き溜まりになる)。

12月31日(月) 雪

7時出発予定で準備をする。夜間の積雪は50cm~60cm程度で、除雪も1回行った程度でテントが潰されるほどの積雪ではない。
前日のトレースは降雪で隠れ、中崎尾根の取り付きまでの積雪が気になるので、清水・坂田・鈴木の3名が尾根の取り付まで空身で偵察に行く(7:10~8:10)。飛騨沢を越えて枝尾根の取り付までワカン装着で1mほどのラッセルはあるものの、傾斜はゆるく雪崩の心配は無いことからテントを撤収し、中崎尾根へ向う事にした。
8:40槍平を出発、状況によって何時でも尾根の森林帯で幕営することも前提に置く。我々と前後して南岳西尾根に2パーティが出発していった。尾根上はラッセルが続くものの雪崩を心配するような場所も無く、所々にうっすら残るトレースを頼りにラッセルを続ける。枝尾根を上り詰めて中崎尾根に合流する手前、奥丸山岳手前のピークの登りで先行していた2人パーティに追いつく(2人パーティと思ったが実は単独登山者2名で、新穂高から槍平までに2日間掛かり、今日も槍平を5:30に出発してきたとの事)。彼らの話から29日は山中でも雨天だったことを知る。
尾根の手前の急斜面は頭までの新雪のラッセルで、雪崩を起こさないよう斜面を切らずに直上し、枝尾根の尾根筋を忠実に経て中崎尾根と合流するように指示する。坂田君がトップで上部までラッセルをして下降中、既に通過が終わったトラバース部分から小規模ながら表層雪崩が発生した。但し、これは斜面を切った状態で上部から重力と振動を与えた為のもので自然発生ではない。
15:20中崎尾根の合流点に到着。降雪と視界の悪さからこれ以上進むことは得策でないことと、天候条件も今日・明日が最悪と考えた場合の退路も考え、尾根の上の暖傾斜を削り幕営をする。更に先行すると思われた2人の単独パーティ?も、30m程離れた尾根の斜面に雪洞を掘って泊まっていた。今日は大晦日で、年越しそばやらバライティーなご馳走に至福の時を過ごす。
この夜は一晩中降雪が続き数箇所で雪崩る音が聞こえたが、冬山で特に珍しいわけでも無く、むしろ翌日の積雪が問題と考えた。夜間は2回程、山側から流れてくる雪でテントが圧迫され除雪を行う。過去の冬山では1時間ごとに除雪をやった事もあり、その点では尾根の幕営は楽である。

1月1日(火) 雪

1s5:00起床、元旦のおせち料理を皆でいただく。昨夜の降雪と積雪から考えると西鎌尾根すら到達は困難ではないかと考え、行けるところまでを前提に出発する事とし、飯田さんにはテントキーパーをお願いする。我々の近くで雪洞を掘って泊まっていた2人の単独登山者は、日数が無いとの事で下山を開始した。
7:30出発して奥丸山岳とのコルの下降に入り、トップの坂田リーダーが斜面で首まで潜ってのラッセルとなる。斜面の積雪、斜面下部のトラバースを考え表層雪崩の危険性大と判断、即座に行動の中止を決定し幕営地に引き上げる。
積雪状況から登れる状態になるには2~3日掛かると思われる事と下降にも時間を要すると考えられる為、計画はここで断念することと決め早速テント撤収を行う。
9:20下山を開始、程なく先行した単独登山の2人に追いつく。登路に使った枝尾根は森林限界上部の傾斜から見て危険と判断し、奥丸山岳経由で南東尾根を下降することにした。奥丸山岳までは首までのラッセルを3時間ほど交代で繰り返し、12:00ピークの直下に到着、南東尾根の下降に掛かる。
奥丸山岳直下の東側斜面(槍平から西側に突き上げている斜面)が大きく雪崩た跡があり新雪のスラブ断層の厚さは1m程、下部の幅は約50mの規模と確認できた。我々は雪崩跡の旧雪に沿って50m程下降、更に50m程のトラバースを行い南東尾根に到達する。この時点で志村さんのワカンの爪が効かずスリップ、30m程滑落するが幸いに止まり、駆けつけた坂田リーダーが回収し、全員が南東尾根に集結する。
その後も南東尾根の暖傾斜帯は、首までの深い雪に交代でザックを置いての空身のラッセルを強いられ、14:30イヌノクボ沢(白出沢出合の若干上部)に下降した。この下降もイヌノクボ沢上部で沢床に降りた場合、傾斜の急な斜面に雪崩の危険性があると思われる為、出来るだけ沢床の下部に降りるべく東側に進路を取りながら下降を行った。尾根筋を忠実に下降することも考えられたが、末端に出た場合の急斜面も予測されることから地図で方角を定めて下降したが、結果的に予測より若干上部でイヌノクボ沢の沢床に降り立った。幸い沢床の積雪は雪崩が出た形跡も無く且つ安定しており、ラッセルの苦労も無くスピーディに、安全地帯へ到達することができた。
15:00単独登山の2人と別れ、森林に囲まれた平坦地(2,200m付近)の雪をならし快適な幕営地とする。

(雪崩事故の事実は大和田さんの報告にあるとおり、1月1日の夜「事故の発生から約19時間後」彼女の携帯に知人からのMailが入り知る事となった)
雪崩事故の要因は27日~28日の晴天、29日の雨で雪面が比較的締まった状態に、30日からの集中的な多量の降雪、それに伴う新雪表層雪崩によるものと考えます。我々が奥丸山岳直下で確認した雪崩現場は、地図で見る限り槍平は直下であり、確定は出来ないながらも、これが要因ではないかと思わせるものがあった。
大和田さんの携帯を借りて留守本部の安達会員に無事下山中の連絡を入れる。我々の登山地域が事故発生地と同じ事から心配をされていた。
後日判明したことであるが、今回の雪崩事故の犠牲者に、鵬翔に入会する前の塩足会員の沢登り・渓流釣りの仲間であった越前屋晃一さんが居られた。彼の所属する三峰山岳会は80年の歴史を持つ古い山岳会である。我々と数十メートル離れた所にテントを設営した為に命運を分ける結果となったとするならば、彼女の気持ちも複雑なものがあったと思う。かつて、この場所には1973年にも雪崩があり、京都大学山岳部が5人の犠牲者を出している。但し、時期的には11月であり現場も400m程上流であることから、多量の降雪があったとしても一概に同じ条件ではないと考える。

1月2日(水) 小雪

5:00 予定通り起床
7:15 出発、イヌノクボ沢を下降する。
沢の下流は所々、沢床の水流が露出しており沢床途通りに下降が出来ず側面を迂回しながら下降する。膝上までのラッセルがあるものの、所々に先行した単独登山の2人のトレースもありスピーディに下降出来た。それにしても鈴木君がワカンを装着してトップで下降する中、ツボ足で遅れもせずぴったり付いていく坂田リーダー、この二人の馬力(見方によってはハンドルの無い暴走車)には頼もしさを感じる。
9:00 飛騨沢との出合に到着、ここで蒲田川右又谷の本流に出くわす。川の水量は多く、簡単に渡れるような場所が見つからない。先行者の渡渉地点は、どう見てもたっぷりと水に漬かっているように見える為、二手に別れ何とか濡れずに済む渡渉地点を探す。漸く坂田リーダーの見つけた場所を渡渉地点としたが水深15cm程の滑りやすい足場に苦労し、濡れずに渡渉できたのは僅か数名。下山日の渡渉で、さほどの問題は無かったが、入山日ならばダメージは大きいと考えざるを得ない場面だった。
10:00夏道の登山道に到着、よく踏まれた雪道を新穂高に向かう。(後で解ったが昨日、雪崩の遭難現場に向かった山岳救助隊と生存者の20~30名が数時間前に下山した為に完璧なトレースが出来たとのことである)
渡渉で足が濡れたメンバーは休んでいられないらしく、途中で休憩も取らず一気に新穂高に向かう。
この頃から上空をヘリコプターが行き交う。昨日は天候が悪く行動が出来なかった為と思われる。県警ヘリコプター6回、報道と思われるヘリコプター2回の出動があった。各機が往復するためしょっちゅう頭上でヘリコプター音を聞きながら新穂高へ向う。
11:35坂田・鈴木が新穂高到着、遅れること1時間以内で大和田、他5名が到着。雪に埋もれた車の除雪を行い平湯に移動し、平湯の森で入浴・食事を済ませ東京に向かう。思った程の渋滞もなく帰京できた。

今回の山行は同じ地域での大きな事故があったことも捕らえ、各人色々と考えることも多かったと思います。私なりに今回の山行を振り返り検証をしてみましたので、今後の参考にしていただけたらと考えます。

1. 予測天気図と実際

今回に関しては、支援天気図と週間予測が極めて一致していたこと、12月29日から崩れてきた天候の回復は1月2日頃からと読めたが、実際の天候も全くその通りでした。良い条件での登山を望むならば、好天に合わせて登山計画を組むべきかも知れません。然しながら、社会人で、しかも勤め人の場合、天気に合わせて山行計画を組んで実行することはなかなか出来る事ではありません。ましてや長期の休みが確保できる年末年始の場合は、現地での判断による行動しか方法が無いのが現実ではなかろうかと考えます。然しながら、ここまで科学的な予知方法が進歩してきた今日、パーティの命を預かるリーダーとしては、状況により総合的見地から日程の変更、山域も含めルートを大幅に変更すのも一つの選択肢と考えます。色々な山行での体験が経験として積み上げられる事により、的確な判断が出来る人材が育つことを期待します。

2. 雪崩の予知に関し

斜面に雪が積もった場合、重力とのバランスが崩れれば雪崩が発生するのは自然の摂理であり、これには斜度、積雪量で判断出る方程式や法則はありません。原則的に雪の斜面は雪崩れると考えるべきでしょう。自分の居る斜面が雪崩れるかどうかの判断は、それなりの知識と経験によるものが現状と考えます。今回の入山時にはブドウ谷、チビ谷及び滝谷出合上部の枝沢と、多くの沢に全層雪崩の跡がありました。しかし新たな全層雪崩が発生する為には、それなりの降雪と気温等の条件が必要となります。半面、条件によっては、同じ場所でも数回に渡り表層雪崩が発生することは充分にあります。地形と状況を見ることにより新たな雪崩が発生する要素があるか無いかの判断もできます。今回の槍平での雪崩事故に関しては、事故現場にいた訳ではないので断言は避けたいと思いますが、テントが潰された状態で流されていないことから考えると、奥丸山岳方面からの新雪表層雪崩によるもので、2m程の段差のある飛騨沢の沢床を越えた新雪がテントの上に落ちて来たことも考えられます。
私が参加した1975年のNepal Himalayaのダウラギリ主峰サウスピラー登攀の際に5名のメンバーを雪崩で失っていますが、雪崩を避けるために岩稜の末端に設営したキャンプに、隣のルンゼから溢れた新雪表層雪崩が岩稜を飛び越え落下したことにより、真上から潰されています。助かったメンバーは体を半身にして就寝していた事が要因と考えられますが、亡くなったメンバーはいずれも窒息死の状態でした。寝袋に入って就寝中、顔の上にテントの生地と雪が落下し、その重みで動くことも出来なかったと推測されます。
これらの状況から考えれば、雪崩の出ない斜面は基本的にあり得ないと考えることも出来ます。新雪表層雪崩の場合、落下する雪そのものもありますが、雪を含んだ雪煙状の衝撃圧の威力も証明されています。NET情報では長野、新潟の豪雪地帯で発生する「ホウ雪崩」と言われるもので、スピードは時速200km以上に及び、1938年12月に黒部川志合谷の工事用宿舎で84人、1918年1月に越後湯沢で158人、それ以外にも黒部川出し平で34人、竹原谷で21人と多くの犠牲を伴う被害が記録されています。

3. テント場(幕営地)の選択

冬山に向かう場合、絶対に安全な幕営地はあり得ないのが結論です。雪の少ない稜線、広大な平地は雪崩の危険性は無いものの、強風の脅威に晒されます。今回の槍平の幕営場所の選定に関し、西に槍平小屋、北に冬季小屋と樹林帯、東に南岳西尾根に続く樹林帯があり、あの場所での幕営地として考えた場合、比較的に安全性は高いと言えます。建物の近くに幕営する場合、建造物の屋根からの落雪、建造物の破壊による事故もあり得ますが、槍平小屋は東西に細長く建設されており、その東面に設営したことは、小屋の屋根からの落雪、建造物の破壊を受けるような雪崩、何れからも保護された場所と考えます。但し、風の向きによっては吹き溜まり場所となり、夜中に数回の除雪を迫られる場合も考えられます。幕営地の上部に斜面がある場合、雪崩に対して全く安全な場所はあり得ないと言っても過言ではありません。大きな雪崩は対岸にまで押し寄せてきます。森林帯でも樹齢が若く成長の早い潅木を見た場合(例えば白樺等)その樹林帯は長期的には大きな雪崩が発生している場合もあります。唯、それが50年に一度か30年に一度かは樹齢を見ることで目安にはなるでしょう。無雪期の登山を通して地形とともに沢の出合や対岸の植生等を観察しておく事も大切です。
中崎尾根の幕営地に関しては、尾根筋に出ることにより積雪・雪質も安定していることを期待していました。当初の幕営予定地は尾根通しにコル迄下降して更に登り詰め2,400m付近で幕営の予定でしたが、尾根上の積雪も多く不安定なことと、翌日の天候も期待できない状況から最悪閉じ込められて脱出する場合、改めてラッセルしながら登り返す労力と時間の無駄を考え、リーダーと協議して決定しました。翌日の幕営地に関しても同様なことが言えますが、冬の幕営地選定に当たって、利便性は二の次としてまずは安全性最優先で考えるべきです。
幕営地の決定をする際の要素として、冬山の日照時間も考慮に入れた時間的タイミングも重要です。勿論、時期によって日照時間に差はありますが、幕営の為の整地、設営に要する時間も考慮して、遅くとも日没の1時間以上前に幕営地に到達、又は選定を済ます必要があります。冬は日没と同時に、またたく間に暗くなります。パーティ登山の場合、メンバーの足並みにバラツキがある場合は特に時間的な余裕を持つ必要があります。

4. ラッセルに関し

今回の入山時、滝谷出合上部で会ったパーティの多くはワカンを持参していなかったか、持参しているにも拘わらず装着していなかった。近年、日本列島の温暖化現象か不明ですが山の雪は少なく、正月の上高地でも足首程度でラッセルなど考えられなかった。仮に多少の降雪があったとしても年末の暮れには何処もトレースが作られており、ラッセルの苦労などあり得ないと言った考えも当たり前の状況にあり、いきなりの大雪で立ち往生してしまったのが現状かと考えます。今回の冬山の天候状況は一昨年の爺ケ岳の東尾根~鹿島槍ケ岳の赤岩尾根依頼、久方ぶりにラッセルをしたと言う感じがしました。短時間での多量の降雪は状況によっては閉じ込められる可能性もあります。パーティとして、ラッセル力があるか無いかでは、あらゆる面での安全性にも繋がってくると考えます。今回の我がパーティには幸いな事に、坂田・鈴木の機関車並みの強力なラッセル車がいたこともあり、閉じ込められる心配は全くありませんでした。又、最近の傾向として、アルミパイプを加工したワカンが主流のように見えますが、つま先が長く装着も構造上、靴がフラットに接触することから平地での効果は認められる反面、斜面の登りには足首に負担が掛かってきます。それに伴い、ステップ確保の為の蹴り込みが要求されます。
雪の斜面に於いて、先行者のステップを崩しながら登ることは、新たなステップを作る必要が出てくる為、時間を費やすと同時に著しく体力を消耗します。ワカンでの歩行も登山技術の一つかと考えます。

5. 日程と予備日の関係

今回の山行計画の日程は予備日を含め、12月30日(前夜発)~1月4日でした。然しながら1月4日から仕事と言うメンバーが数人居ました。その為、実質的な計画は1月3日で予定を組んでいました。その意味では計画書も予備日を含め、現実的には1月3日までとするべきであったと感じます。
坂田リーダーが1月3日の夜から次の計画があるため、2日には下山したいとの希望は聞いていました。但し、これに関しては私としては極めて楽観視していました。何故ならば、リーダーとしての責任においてパーティで入山した以上は、次の山行等は二の次で、当然、現在、山行を共にしているパーティの安全が保証された上で初めて許されることが前提だからです。

(記: 清水)

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