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親父のひとり言(8)

(昔を語ろう)part 5 マナスル(8,156m)西壁編 借金がヒマラヤを登る

その二、8,000峰も甘くなかった(高山病との闘い)

Oyzi

1971年5月17日 マナスル西壁からの登頂が成功して、我々は全てのCampを撤収しBase Campへ向けて下降していた。
俺は昨日、帰還した登頂隊員を収容してCamp 4(7,100m)からCamp 3(6,500m)に降り、今日は既に 撤収されたCamp 2(5,500m)を経由してBase Camp(3,500m)に向け下降していた。 Camp 3から下の斜面は徐々に傾斜も緩くなっており、ルートも整備されているので、雪崩とスノーブリッジ以外は左程の危険性は無い。唯、正直言って俺は「カンバテ」の状態になっていた。
両足に紐を縛りつけ、手で引っ張り上げながら足を進める、そうしないと、足だけでは持ち上がらない。
足も真っ直ぐに降りてくれないから、しょっちゅうズッコケて倒れる。その都度、起き上がるたびに更に、体力を消耗する。
そんな訳でペースは全く上がらず、氷河の末端まで降りたら既に真っ暗、ライトを点けての下降となった。Base Campからは祝宴の笑い声が聞こえる。俺は頭に来て「バカヤロー迎えに来い!」と怒鳴るがその拍子で顎の筋肉が攣ってしまって開いた口も塞がらない。
ほうほうの呈でBase Campに帰り、それから丸2日間は飯、糞、小便以外は、唯、ひたすらに眠るだけだった。

1971年2月、日本でのドタバタ準備(金策)を終わり、IndiaのCalcutta経由でNepalの首都「Katmandu」に付いた。空から見るヒマラヤは圧巻で、そのスケールのでかさに驚く。日本の山の上空をジェット機で飛ぶと
平面にしか見えない。富士山もアナポコが開いたように見える。ヨーロッパ・アルプスの場合でも、山は眼下
に見えた。でもヒマラヤは凄い。Everestを始めとする8,000mを越える山々が、飛んでいるジェット機の横に立ち塞がっているんだから、初めて見るそのスケールの大きさには圧倒されたね。Katmanduで登山に関する手続きを終え、俺は先発で先空路、第2の都市(町)「Pokhara」に移動して隊荷の到着を待つが、中々到着してくれない。
ネパール語もよく解らん中、俺がルンビニに近いバイワラまで隊荷を探しに行く事になった。
幸いにも、現地に確保した一級ホテル(土間にベッドが有るだけの2人部屋)で陸送班のメンバーと合流、数日に全員が終結した。
この間、俺は全く予算もなく、一日\150(宿泊費混み)で毎日、蝿の集っている揚げパンと紅茶で凌いできた。(今はネパールの物価水準も上がってきたので、とても無理と思うが)。
13日間に及ぶ山麓までのキャラバンは実に楽しかった。日中の行動時間は荷を運ぶポーターの距離で幕営場所も決まっており、時間的には我々の足でも4~5時間と限られている。トレッキングに近いとも言えるが、違うことは、登山隊にのみ許可されたコースで、ヒマラヤの峰を仰ぎながらの山麓徒歩旅行は最高だった。
正面にマナスル(8,156m)の西面を望み6~7,000mの山に囲まれた氷河の末端、3,500mにBase Campを設営、本格的な登山が始まった。

3月17日登攀活動を開始、Camp 1(4,500m)、Camp 2(5,500m)、Camp 3(6,500m)とルート工作と荷揚げが進み、俺がCamp 3(6,500m)に入ったのは、行動開始から1ヶ月後だった。
それまでの俺は高所の影響も左程なく、順化もうまく進み、荷揚げもシェルパのメンバーと重量、スピードを競い合っていたのだが、ここで調子が崩れてしまった。夜は全く眠れなくなり、睡眠導入剤のお世話になっても全く調子が出ず、7日間の滞在で Camp 2(5,500m)に下り、2日ほど休養を取った。
其の後は2回ほどへ荷揚げを行い、再度Camp 3(6,500m)へ入り、上部へのルート工作と荷揚げを行い、Camp 4(7,100m)に入った。Camp 3とCamp 4の間、7,000の高度には傘岩と名づけられた垂壁があり、埋め込みボルトとハーケンの連打による人工登攀で突破された。この時点で既に、動ける隊員は少なくなっており、俺を含む4人と傘岩を突破できたラクパ・テンジン以下3人のシェルパが7,000m以上での行動を行うことになった。
ここから7,360mのプラトーまでの高度差は僅かだが、一旦、南斜面を下降して、更に懸垂氷河に続く青氷の斜面にルートを伸ばしながらロープを固定していく。最後の懸垂氷河に抜けるクーロアール(凹角)は傾斜を増し、
アイススクリューを駆使しての、人工登攀の一歩手前とも言える登攀だった。
天候で動けなかった日もあったが、5月6日からCamp 5(7,360m)のルートを作るのに10日間を要した。
12日間に及ぶ7,000m以上での高所滞在と行動は完全に俺の限界を越えていた。
高度障害の為、唯でさえ丸い俺の顔はパンパンに膨らんでボーリングの玉のようになり、日に焼けて爛れ
(特に唇が酷い、飯を食う事さえ億劫だ)、風邪が当るだけでも激痛を感じる。
高度障害で、元々イカレタ頭が更にイカレっちまうて事だから、大変な事なんだよ。
動作も緩慢になり、朝の行動開始時もテントの中で靴を履いて、外に出てアイゼンを履くわけだが、自分では15分くらいで出来たと思っていたが、雨宮さんに言わせると、実際は2時間を要していた。
それだけ思考力も減退していたと言うことだから、落ちたら止める動作などできっこないと思うよ。
かなりヤバイ状態だったと思うが、Camp 5(7,360m)までの最後のルート工作で動ける隊員は俺達だけで、最早交代要員は居なかったのが、実情。
俺も第2次隊で頂上を登るつもりでいた、実際に登りたかった。その為に借金までしていったんだからね。
精神的にはそのつもりだったが、最早、体が付いて行かない状況だったと言う事。

結論的には、若気(馬鹿気)の至りで、セーブすることも考えず「イケイケドンドン」で高所順化がうまくいってなかったところへ、最後の7,000m以上でのアルバイトはローテーションも組める状態じゃなかったって事。
ヒマラヤは長丁場の場合、ペース配分とローテーションによる体力の回復が重要だって事。
まして7,000mで高所順化なんて常識的にも考えられない、唯、消耗のみ、その意味では滞在期間は短いほうが良いと思う。今回のマナスル登山は日本でも初めての8,000m峰のバリエーションルートでもあり登攀のみで約60日が費やされている。
最近のヒマラヤ登山は短期速攻的に登り方も変化している関係上どんどん期間も短縮されている。

下界に降りたら、55kgあった俺の体重は45kg以下に減っていた。
おまけに、欠食児童の如くの馬鹿喰いと、下界の雑菌で腹は超特急と、忙しい、いくら喰っても体重は回復せず、そんな訳で、帰国してからも、力が出ない。持続力の維持が困難でやたら疲れて眠くなる。
三つ峠に岩登りに行ったが、かったるくて、皆が登っている間、俺は取り付きで夕方まで昼寝をして、下山してくるありさま。
結局、元の体重と体調に戻るまでに1年以上かかったかな。
まさしく「自分の体を食って登る」とはこのことだった、美味くもねえ話しだが。

(記: 清水)

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