越後~会津 八十里越山行

日時 : 2005年5月1日(日) ~ 4日(水) 
参加者: 飯田平八郎(20期) ・ CL清水清二(25期) ・ 塩足京子(66期) ・ 和内優子(66期)
報告者: 塩足京子

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2004年NHKの大河ドラマは「新撰組」であった。その影響で関心を持った訳では無いが「戊辰戦争」を勉強する機会を得た。鳥羽・伏見から始まって甲州、白河、長岡、会津、庄内、函館等を訪ね歩いた。今回の山行「八十里越」は、その戊辰戦争の一つ「北越戦争(慶応4年/1868年)」のあった長岡、そこの藩士「河井継之助」が最期を遂げることになる峠道である。藩の行方に高い理想を持ち、武装中立を目指した河井継之助であったが、薩摩・長州と正面から衝突していくことになる。新政府軍を苦戦に落とし入れながらも継之助は激戦中に負傷してしまい、必死の攻防も空しく長岡城は陥落してしまった。継之助が負傷した脚を抱え、敗兵5000余人と会津に向かった道が「八十里越」であった。彼の残した自嘲の句「八十里 腰抜け武士の越す峠」は多くの人に知られており、司馬遼太郎著「峠」の題名も八十里越から付けられた。

河井継之助が戦いに敗れて会津に向かった季節は8月であったが、今回我々は、大雪の残る八十里越となってしまった。八十里越は古くは、治承の乱(治承4年/1180年)で宇治川で死んだとされる高倉宮似仁王(似仁王は平氏討伐の令旨を諸国源氏に下して挙兵したのである)が、逃げた道とも言われている。(そういえば今年のNHKの大河ドラマは「義経」だ。)ここには似仁王に因んだ地名が多く残るという。「八十里越」の名の由来は諸説あるらしいが、非常に険路な為、山道一里が平地の十里にもあたるからだと聞いた。実際には八里(32km)程か。越後と会津とを結ぶ要路となったこの峠道は、最盛期の明治33年頃には18500人の往来があったそうだ。雪深いこの地を考えれば、無雪期の半年間にこれだけの人が通ったのだ。道もかなり整備された時もあっただろうが、大雪の降るこの地を雪のある時期に通ることは、かなり危険なことであったろう。にも拘らず、止むに止まれぬ事情でここを通った人もいたのであろう。今回は、そんな思いを背負ってこの峠道を歩いてみた。それに加えて、昨年この辺りを立て続けに襲った7月の水害と10月の地震の被害。これにより道も大きく崩壊したことであろう。今年の大雪がこの崩壊箇所にどう関わるか、も是非今回行ってみたい理由の一つであった。

5月1日の朝、東三条駅に集合。11:30発の遅場まで行くバスに乗るのであるが、その前に生鮮食料品をここで仕入れる為、2時間程早めに来た。駅前にスーパーがあるとの情報で、その段取りを組んだのだが、そのスーパーのシャッターが、ここしばらく開けられた様子が見受けられない状態に焦ることになる。駅前の交番で食料品を手に入れられる所を聞くと、国道沿いにあるとのこと。500m程歩いて全日食チェーンストアがあった。果たして無事3泊分の食料が揃う。今、特に地方では、車を使わなければ行けないようなところに超大型店ができ、かつて賑やかだった駅前が急速に寂れていく現象が起こっている。今回は歩いて行ける範囲に店があったが、車が無い人は今後どうしていくのだろう。

東三条駅11:30発、遅場着12:26。バス代は通常@\690であるが、回数券を利用して@\640となる。遅場に着くなり、地元の人と話す機会が得られた。八十里越の中程に「空堀茶屋跡」があるが、御先祖がこの茶屋をやっていた方であるとか、馬子の孫である方だとか、いきなり面白い話を聞かされる。今日の歩きが無かったら、ここで一升瓶を真ん中に車座で皆さんのお話を伺いたかったものだ。この空堀茶屋跡の「空堀」は、先の似仁王に因んだ地名だそうだ。13:05後ろ髪を引かれつつ遅場を発つ。雪の無い季節は吉ヶ平まで車が入ったとのことであったが、今は多分、水害と地震で道はズタズタのはずだ。今日は吉ヶ平まで2時間の歩きである為、私にしては重たい野菜をたっぷり持ってきた。重たいものは今晩と明朝で食べてしまおう。ガードレールが雪で埋まった道を行く。所々道が切れており、うっかりすると雪に隠れたそれにはまってしまう。強い陽射しの中、初日の重い荷物に余裕無く黙々と歩いていたが、最初の休憩のところで早速、清水さんが両手に一杯のコゴミを採ってきた。こんなにたっぷりの雪の中、どこにそんなにあったのか。さすがは目ざとい。その後フキノトウもGet!吉ヶ平に近づいた所で道は2箇所50m程に渡ってザックリ大きく崩れていた。残雪を利用して大きく高巻き、わずかに残された崖の縁をかろうじて通過する。吉ヶ平着15:10。ここには昔分校であった建物が一棟立っているだけである。最近まで山荘として利用されていたそうだが、今はどうなっているのだろうか。窓ガラスが割れて荒れ果てているということは無く、この大雪にも崩壊することなく大丈夫のように見えた。吉ヶ平はその昔、交易の中心地であり越後の京と呼ばれていたそうだ。越後より塩・金物・干物・昆布・櫛・唐傘・日用品などが会津に入り、会津からは馬・薬用人参・麻・煙草・蚕・漆・蝋・紙・ゼンマイなどが運ばれ、最盛期には38戸、宿屋は5軒あったと言う。高倉宮似仁王が、会津・叶津からここ吉ヶ平に落ちのびたとする伝説と合わせて感じたい。

ここに来て急に寒くなってきた。先程までの暑さが嘘みたいだ。陽射しに力が無くなってきたが、まだ明るいのでもう少し道を稼ぐことにする。守門川に架かる樽井橋を渡る。道は緩やかに登っていくが、雪の為はっきりしなくなる。どこでも歩ける地形に地図とコンパスが必要となる。沢の形状を見ながら進む。慎重に歩を進めるが、馬場跡の分岐手前で沢を一本左に入ってしまったことに気付く。戻ったところの水が取れるところで16:00となっていた。ここに今日の幕営地を決める。テント場の整地をし、沢筋の雪渓の穴を広げ2m程下の水が取れるように工作する作業に30分程かかった後、清水さんと飯田さんは、明日のルート確認に出ていった。その間、和内さんと私で、まずコゴミの前菜作りから始める夕飯の仕度に取り掛かる。今回山菜はたっぷり取れることを予想して、オカカと醤油は用意してきた。初めて味わうコゴミの味見に和内さんは感激したことだろう。外に出ると、やけに生暖かい風が吹いていた。やがて雨が降り出し、暗くなる前、清水さんと飯田さんは戻ってきた。これで明日の朝は迷うこと無く、北緯37°26′57″東経139°08′07″標高515m地点まで行ける。ウン?ホクイサンジュウドニジュウロップンゴジュウヒチビョウ?何コレッテか?そう、今回「GPS」という心強い文明の利器を持ってきた。これでこの雪深い地形の中でも道を外さず行くことができるだろう。その夜、大鍋二杯分のコゴミを茹で、前菜第二弾にキャベツ一玉とベーコンの煮込み、メインに野菜一杯のカレーを作った。全てが消化され、空の鍋を表に放り出してお休みなさいだ。雨はずっと、しとしと降っていた。

翌朝5月2日5時 雨はまだ降っていたが、ラジオの天気予報で間もなく上がるとのこと。具沢山の玉子汁と納豆の朝食を、雨の上がるのを待ちながらゆっくりいただく。納豆の嫌いな和内さんには生卵を渡し、ぶっ掛けご飯にしてもらう。9時頃雨は止みテント撤収、10:00出発となる。馬場跡の分岐を右に曲がり、昨日の偵察地点を過ぎる。道は沢を何本か横切るが、雪が融けているそこにコゴミを見つけた。一箇所で帽子一杯のコゴミを収穫できた。太く伸びているが柔らかい、極上の代物だ。同じ山菜でも雪が深い地方の、雪が融けたばかりの時に採れるそれは、軟らかくて甘い。その採れたてを味わったら、山菜のイメージは大きく変わる。普通はなかなか手にできないものである。採れたてを、馬のように豪快に食べる味わいを地の人に教わった。上品な食べ方では分かりえない味がそこにある。それを知ってしまった私は幸なのか不幸なのか。思いっきり食べるには、味付けはシンプルなものに尽きるようだ。ルートを確認しながら先を行く清水さんに申し訳無いと思いながらも、和内さんと私は椿尾根への急登に至るまでの沢を横切る度に、コゴミ採りに精を出す。やがて椿の木がやけに多いところに出た。12:30視界が開けた所が番屋山に続く椿尾根である。お昼を食べながら見渡しの良いところに登ってみると、傾斜の強いところをトラバースして行くこれからのルートが、大きく崩れているように見える。和内さんを残し、ザイルを持って偵察に行くことにした。空荷ではあったが、見るほどには危険ではなさそうだ。再び椿尾根に戻り14:00次の目標地、番屋乗越に向かって歩き出す。右手に大滝が見えた。

やけに色っぽい木が先程から気になっていた。つやのあるきめの細かい木肌を持ち、数本が妙に艶めかしい曲線で枝を絡ませ抱き合っているように見える。私の願望がそう見えるのかと恥ずかしさを覚える。後で「モチブナ」だと知る。稜線近くにある木々は昨日の雨で芽吹いたばかりなのか、青い空をバックに柔らかくしなやかにそよいでいる。若木を見ながら大きなため息を吐いていることを問われ「みずみずしさが羨ましい!!」と思わず本音を吐いてしまった。若芽にも感動したが、この度の大雪で折れたり倒れたり、未だ雪に押し付けられている木々を多く見る。もう少ししたら、その折れたり倒れたりしている木々も、脇の方から新芽の枝を伸ばすだろう。番屋乗越への行く手は、その倒木で塞がれている箇所も多く難渋する。雪の詰まっている沢に下りてショートカットをも試みるが、いくらも稼げない。番屋乗越着16:00。ここからは無雪期であれば道は北側の山腹を縫い、なだらかで歩きやすくなるということであったが、今回はいつ雪崩れるかもしれない斜面のルートを行くわけにはいかない。尾根通しを歩くことになる。高度を上げる。大きなブナの木が一本立つピーク(ブナの横手)を越えると、烏帽子山や鞍掛山の全容が良く見えるようになった。鞍掛峠までの道の様子が良く分かる。北側の山麓には建設中の八十里越新道(289号線)とトンネルが見えた。1006mピーク(ゴンデ山)を越えて、1010mピーク手前のブナ沢側に降る尾根を一気に下る。17:30を過ぎてはいたが、今日の遅い出発とルート偵察に要した時間を取り戻す為にも天気が良い今、日没ギリギリまで行動することにする。18:00ブナ沢二股上部の水が取れる平坦なところに清水さんが幕営地を決め、待っていた。水は雪渓下の洞窟状の所から取るのだ。尾根を下る頃になると、疲れがでてきたのか後が付いてこなくなった。30分程待って全員揃う。テントに落ち着いて先ずは、お昼に採ったコゴミを茹でる。皆、馬のように食べ人心地をつける。今晩は私の定番メニュー「麻婆春雨ナスピーマン」である。軽い食材ばかりで作る。余裕があれば他の具をドンドン入れればいい。軽い食材の分、チョット余裕のお酒を持ってきた。山でお酒が切れると即、下山したくなる私であった。その分下界では飲まないようにしたいものだ。今日の天気は雨が上がった後は最高のものであった。今、星が出ている。明日も良い天気に恵まれますように!

翌5月3日4時起床。野菜と餅入りラーメンの朝食で6:40発。雪で埋まったブナ沢と高清水沢を越え、7:40初日に遅場で出会った方の御先祖がやっていた「空堀茶屋跡」に着く。全てが雪の下であるが、今も柱の土台は残っているのだろうか。烏帽子山の山腹を通過中、何本もの雪崩の痕があった。稜線には今にも落ちそうな大きな雪塊も幾つかある。鞍掛峠へは一気に上がる。鞍掛峠着9:00。切り通しの峠にある石の祠は雪に埋もれておらず、今回初めて見るものであった。八十里越の峠とうげには山神の石祠や石仏が多く佇むという。無事、会津に辿り着けることを祈る。ここを過ぎると何となく風が変わったような気がした。まだ越後であるが会津の匂いがしてきた。会津が近づいてきた。9:40小松横手までの山腹をトラバースすると、右手前方に田代平の湿原が見えた。この辺りは松の木が多く生えている。小松横手にある高さ5m位の松は「越後見納めの松」というらしい。戊辰戦争で落ちのびた長岡藩の人々が越後との別れを惜しんだ所という。無雪期はここから湿原に向かって高度を落としていくが、斜面は不安定な雪で覆われており、頭上には巨大な雪庇が張り出している。ここを通ったら雪崩にやられるだろう。ここも尾根筋を行くことにする。2箇所の小さな藪漕ぎがあったが、ここでかなり体力を消耗したようだ。10:40登りきったところで下降用のザイルフィクスをして少々後を待つ。合流後は田代平に向かって一気に駆け下り、湿原の平らな道を暫らく行く。11:40湿原の終わる手前でお昼である。遠くに清水さんの故郷の山、八海山を見つけた。

12:00いよいよ越後と会津の国境、木ノ根峠に向かう。30分程で着く。過去の痕跡は雪の為、何も確認することは出来なかったが昔、越後と会津の馬方はここで互いの荷を交換したという。又、河井継之助を始めとした長岡藩士は、ここの茶屋で一晩泊まったとのことである。感慨深いものがある。「八十里越」は長い歴史の中で三度の大改修をしているとのことである。天保14年、明治14年、明治27年の三回だ。越後側は旧来の道の改修で済んだが、会津側は自然条件の厳しさから、改修の度に古道、中道、新道の三つの道につけ替えられたとのこと。河井継之助が会津に逃れたのは勿論「古道」であるが、その道はここ「木ノ根峠」から分かれる。当初、継之助を追って古道を行くことを希望していたが、私たちには時間に限りがあった。今回は、明治27年改修の新道を行くことになる。この辺りは私の好きな山域だ。近い内に又来よう。古道が通る沼の平に、長岡藩士は3000両隠したとの伝説が残る。又ここには、継之助の為に会津人が開いた短路があるという。今でもその部分は「河井新道」と呼び伝えられ、かすかに痕跡を留めているそうだ。

木ノ根峠から次の目標地の松ヶ崎まで雪渓状態が悪く、谷筋まで下降するルートを取る。松ヶ崎の下部にあたるところに着いたのが13:00。道のあるところの高度は760mであるが、実測高度は650mであった。この辺りから和内さんが、残り少ない飲み水のことをしきりに気にし出した。余りの天気の良さに思った以上に水を消費する。下に木ノ根沢が見えたが、とてもそんなところまで水を取りに行く気になれない。沢音が余計彼女をイライラさせるのであろう。「冬と違って湿った雪なんだから、それを口に含んでおきなよ!」と冷たい言葉を私が投げる。高度を気にしながら行くが、上部まで雪渓のつながる沢を直登しルートに戻る。13:45嬉しいことにこの沢で一箇所雪が切れている所があり、水が得られた。私も思いっきり飲んだ。水を飲み元気回復と思いきや、和内さんの歩きはかなり遅いものとなってしまう。「今日も日没まで歩くわよ!」これを言ったら本当に歩けなくなっちゃうよね。それでも騙しだまし、緩やかに下っていく道を歩いてもらう。化物谷地と呼ばれる湿地帯を行くが、雪が無ければこの道はズブズブぬかるみ相当歩きにくい所らしい。雪が融けているところに白い包のミズバショウが咲いていた。

間もなく、雪の急な尾根を30分程下りきるといきなり人工物に出くわした。なんとトンネルであった。「竣工1993年叶津第一トンネル」とある。工事中の国道289号に出たのであるが、国道にも雪が積もっていた為、ここに下り立つまで気がつかなかったのである。真っ直ぐな味気ない国道歩きは疲れを押すものである。国道に80cm程積もった雪は意外と凸凹して歩き難い。今日の泊場、遅沢出合いに着いたのは17:30となっていた。本来の予定は八十里越を抜け、叶津にある福島県指定重要文化財の古民家、旧長谷部家住宅「叶津番所」に泊まることを考えていた。叶津番所は戦国時代会津越後の国境に設けられた地方の関所であるが、昔の面影を偲ぶことができる番所屋敷に体験宿泊できるのである。ここは左足膝下の傷が悪化する中、ようやく八十里越を果たした継之助が一夜を過ごしたところでもあった。私たちは遅沢の出会いで、新潟魚沼産のコシヒカリを炊く。この米は、六日町で田圃をやっている方からいただいたものであった。本当は叶津で新鮮な食品を仕入れる予定であったが、おかずは質素な切干しダイコンでも、米が美味けりゃそれでいい。それに昨日採ったコゴミもまだたっぷりあった。

5月4日5時起床。昨夜四合炊いて余ったご飯とモチ、ラーメンの残物で朝食を摂り、7:10発。ここから無粋な国道をずっと辿るなんて耐えられない。遅沢を渡って対岸の山腹を行く。が、間もなく白沢平橋が見えるところで状態の悪い雪にぶつかり、滝ノ沢橋まで引き返すこととなる。これらは工事用に架けられた橋とは別で、出来たばかりの橋のようである。延々と続く真っ直ぐな道を入叶津まで歩く。途中でちらりと見た釣り人が、久しぶりに見る人の姿である。9:40入叶津着。入叶津でタクシーを呼び、長い歩きはここで終わった。まだ三分程しか咲いていない叶津の桜が印象的であった。只見駅13:20発、小出行き臨時のデイーゼル機関車を待つ間、我々は先ず会津塩沢にある「河井継之助記念館」に向かった。会津塩沢が河井継之助の最期場となったのである(慶応4年8月16日)。我々はその後、継之助の墓に参り冥福を祈った。火葬後に残った継之助の細骨を、村人たちが集めて手厚く弔ったという。文字は刻まれておらず、お墓というよりも、むしろ祠のような形であった。色々な思いが過ぎる。戊辰戦争のこと、この山行のこと。忘れられない山行の一つとなった。その後、只見に向かい只見駅近くにある「只見温泉保養センター」で山行の汚れを落としたのであるが、入湯料@¥250には驚いた。先の記念館の方もここの方も、営業時間前であったが直ぐに入れてくれた。タクシーの運転手にも会津の方の人柄を偲ばせるものがあった。今この原稿を「桜飯」をいただきながら書いている。継之助が好んで食べたという大根の味噌漬けを炊き込んだ飯である。

GPS測定値 「gps.xls」をダウンロード
ruto

◎参考文献
鵬翔山岳会OB小林光衛さんからいただいた資料 『北陸建設弘済会発行の八十里越』他
岳人2001年2月号掲載 『道-その光芒 八十里越』 高桑信一著

◎費用
JR 東京~東三条 乗車券 @¥4940  +  新幹線
バス 東三条~遅場   @¥690 → @¥640
タクシー 入叶津~会津塩沢~只見   一台¥4990
JR 只見~東京  乗車券 @¥4940  +  新幹線
河井継之助記念館        @¥300
只見温泉保養センター      @¥250
山中食料費及びガス・ガソリン代   @¥2350

記2005年5月12日

参加者の感想など

「峠越え、ひとに打たれて八十里」

目線の先に方向を定め、皚皚たる雪の斜面を切り裂くように、トラヴァースの直線は大胆に引かれていく。清水さんの足取りは、まるで自然の意を読み取っているかのように確信に満ちていた。私たちがそこにいた痕跡は、迷いのかけらも残さず雪の上に置き去りにされて行く。

峠の古道は、天災で崩壊し例年にない深雪に埋没していた。5月の八十里越に、人の匂いはなかった。霧に凍える山肌に、ところどころ山桜が淡い春色を灯す。雪まだ深い静寂の山野で、時折孤独と恐怖に胸が塞がった。

残雪は雪崩れる瞬間を待ち構えながら身を浮かせ尾根沿いの斜面にへばり付き、雪原は春光を照り返し、視界を遮る。容赦ない山の在り様は、剥き出しの脅威にあふれていた。

崩落した古道をかわし一気に尾根に登りつめ、上から攻める。
「弱点を探すのよ」と、塩足さん。
鬱蒼とした木々の間に、飯田さんは見えない「小径(みち)」を見出していた。
「そのうち見えてくるようになるよ」

この人たちと一緒なら恐くない。
未踏の世界にありながら困難を切り拓く、その「生きる能力」の鋭さに圧倒された。

こんなすごい人たちに惚れずにいられようか?

(記: 和内)

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