日時: 2008年11月1日(土) ~ 2日(日)
山域: 八海山(上越)
参加者: 塩足(L)・坂田・和内
行程:
第1日目: ロープウエイ山頂駅 – 八海山避難小屋 – 八ッ峰の岩場を空荷で大日岳まで – 八海山避難小屋泊
第2日目: 八海山避難小屋 – 五竜岳 – 阿寺山 – 山口へ下山を変更し – 八海山避難小屋 – (迂回路) – 新開道分岐点 – 八海山避難小屋 – ロープウエイ山頂駅
「行かなきゃ」
山行の参加案内にあった「八海山」の文字が目に入った瞬間、心は寸分の迷いもなく定まり、山行立案者の塩足さんに参加希望のメールをすぐに返信した。
「清水さんに会える・・・」
11月1日、7:00東京発 Maxとき303号の車内で塩足さん、そして坂田さんと合流した。私にとって数年ぶりの会の山行であった。
空は北に向かうにつれ陰鬱な重々しい色を帯び、越後湯沢では、細く柔らかな松葉のような秋雨が静かに山肌を濡らしていた。在来線に乗り換えゆるゆると六日町に近づく。雨足は次第に弱まり雲が切れ始め、そこから薄日が差してきた。
「登り始める頃にはやみそうだね」
8:43六日町到着。駅前の商店で塩足さんが日本酒の八海山とビールを購入する。日本酒(瓶ごと)、ビール、鍋、食材など重量のあるものは坂田さんが全て荷上げを引き受けてくれた。坂田さんのザックをこっそり背負ってみたが背に載せるのが精一杯、よろめきながら2~3歩歩いてみる。
「これ背負ってじゃあ登れないわあ」
「大丈夫です。ハイキングですから・・・」
と淡々と語る坂田さん。頼もしい。
9:25、六日町駅前発の八海山ロープウェイ駅行きバスに乗り込む。そこでこのバスが清水さんの実家近くを通ることを知った。
「それじゃあ、今走っているこの道路は、清水さんがいつも通っていた道ですか?」
「オレッちの家は長い坂の上にあるから、町に出るときは自転車こがずに楽して行けるんだけど、帰りが大変なんだよなあ」
と、生前、清水さんは実家の様子を語っていた。バスは八海山の麓に続く緩やかで長い長い坂を登る。息を切らしながらえっちら自転車を手で押して歩く清水さんがいそうな気がして、その後ろ姿を求め、目は路の上をさまよった。
10:10、八海山ロープウェイ着。ロープウェイ乗り場で阿寺山の登山道崩壊情報を耳にした。2日目は阿寺山経由で下山を予定していたが、この時点で計画変更をせざるを得なかった。直前まで降っていた雨のせいか、登山客は我々を含め2~3組だった。
雨をたっぷり吸い込み柔らかなクッションのように膨らんだ落ち葉を踏みしめ山道を歩く。時折雨が激しく降り出し、レインウェアを出したりしまったり一定しない天気に翻弄される。
11:20、女人堂到着。八海山が女人禁制の時代、女性はここで遥拝して下山したという。10月30日の初冠雪の雪がわずかに小屋脇に残っていた。
11:45、霊峰の結界を越える緊張感もなく、女人堂を後にした。途中、祓川を渡り、急登が続く。足元の岩々の間にはチョロチョロ水が流れ、沢のなめのようであった。そして延々と続く鎖場が始まった。
鎖は水に洗われてキンキンに冷やされていた。握るうちに、溶け出した鉄錆が手の平の皮膚に深く染み込んでいく。急登とトラバースが連続する急峻な岩肌を大蛇が這うように鎖がいたるところに張り巡らされていた。
8合目の薬師岳を経て12:40八海山避難小屋到着。
小屋の壁に「阿寺山→途中の沢が水害で登山道通行止め」の注意書が貼り出されていた。7月27日、八海山を襲った集中豪雨は極めて局地的なもので、阿寺山の下部の沢は大きく崩れた。地元の人たちは補修工事が行われた上部の崩壊のことも含め「こんなことは初めてだ」と衝撃を受けた。「地盤がしっかりしている山」と信じていた八海山が「壊れてきている」ことを認識させた災害であった。
小屋にザックを残し、13:00、ほぼ空荷で八ツ峰に向かう。恐竜の背中を彷彿とさせる険しい岩峰に息を呑んだ。
「鎖だけでこれを乗り越えられるのかなあ?」
両脇が見事にキレ落ちた細い峰のアップダウンを繰り返す。究極のスリルを楽しみつつ1700mの頂の上で終わることのない鎖場に「最後までいけるかなあ」と不安が胸に広がってきた。冷え切った鎖を握りしめる手は寒さで赤らみ指がむくんできた。
途中、大事をとって坂田さんにバックアップをとってもらいながら、なんとか大日岳の頂を踏み、14:50入道岳側に降りた。鎖が垂れているとはいえ「この傾斜でこのボリューム、この高度感を『鎖場』と呼んでいいのだろうか?」すっかりなまった体で無事八ツ峰を越えられたことに深く深く安堵する。
15:00八海山避難小屋に向かって山頂迂回路を進んだ。迂回路といっても侮れない。鎖場とはしごがしつこく続いた。
避難小屋についたのは15:50。部屋は我々パーティーで貸切りだった。気温はどんどん下がっていく。鍋やコンロを出して夕食の支度にとりかかる。
塩足さんが一個のグラスをザックから取り出した。底厚のウィスキーグラスで、底の中央には小さな富士山の影が浮かんでいる。グラスに八海山がなみなみと注がれた。グラス横には一本のろうそくが、倒れないようにカラビナで床に固定され、火が灯された。ろうそくの炎がグラスの中の八海山を明るく照らす。命が宿ったように八海山は神聖な光彩を放っていた。清水さんが愛した富士山、そして八海山・・・それぞれお茶とお酒が入ったマグカップをグラスのふちに軽く当てる。
「じゃあ、清水さん!」
ガラスとチタンが触れ合い「コン」という軽い返事が返ってくる。
まるで蛍のように暗闇の中でまぶしく発光するグラスを3人は無言でみつめた。
心からこみ上げてくるありったけの惜別と悲しみを堪えた。心の中で光に向かって何度も何度も呼びかける。
「清水さん!清水さん!」
名古屋風味噌おでんとうどん、地鶏を肴に八海山を飲みながら清水さんの思い出を語り夜は静かに更けていった。
その夜、シュラフマットを持っていかなかったために、寒さで私はなかなか眠りにつけなかった。何度も寝返りをうち時折とろとろまどろむ。
夢をみた・・・。
私は実家にいた。夜、戸外で何かが発光したのか、窓ガラスにぼんやり白い明かりが映った。
確かめようと裏庭にでる。隣家との間にわずかに見える夜空を見上げると、無数のまばゆい閃光がまるで花火のように空に広がった。お祭りか、戦争か・・・。閃光が何を意味するのかわかるすべもなく、夢の中で私は途方にくれた。
11月2日5:00、塩足さんの声で長い夜が明けた。
「ねえ、夜、誰かヘッドライトつけた?」
「誰もつけてませんよ・・・」
「夜、坂田さんの側の窓ガラスに光が映ったのがみえたのよね。」
寝不足のあまり聞き流しそうになっていた私は、瞬間目が覚めた。
「あの・・・私も夢で同じ光景をみました。」
朝食を済ませ、6:30避難小屋を発った。計画を変更し、下山路は新開道を行くことにした。
途中通過した月の池には厚さ1cmの氷がはっていた。
岩や山肌から染みだした水が凍てつき、滑りやすい足元に注意を払いながらトラバースと鎖場を繰り返す。道の状態と、今までかかってきたペースを考え、避難小屋に戻り登ってきたルートで下山したほうがいいと塩足さんは判断、来た道を一行は引き返した。
8:10に八海山避難小屋に到着し、女人堂に着いたときは9:10だった。昨日と打って変わり好天に恵まれた登山日和で途中大勢の登山者とすれ違う。7月27日の荒天で多くの登山道が荒廃しボランティアたちによって修復されたことを女人堂で出会ったおじさんから知った。通過する遥拝所でところどころみかけた割れた石碑などから、被害の大きさが想像できる。
ロープウェイ手前で立ち止まり八海山を振り返る。八ツ峰越えを思い出しながら
「谷川の南稜より厳しかったかも・・・」
と、意外な感想が坂田さんの口から漏れた。
10:10ロープウェイ到着、清水さんが氏子であった八海神社に向かった。建て直したばかりなのか、新木の若々しい香りが漂う神殿の壁には清水さんの名前の札が掲げられていた。
神社近くでおいしいお蕎麦を食し、食堂内の壁に清水さんが撮影したエベレスト登山の写真をみつけた。
徒歩で山口のバス停まで行く。バス停前の酒屋さんでお店のおばあちゃんから柿をいただき
清水さんの思い出話をする。道路をはさんですぐ向かい側には住む人のいない清水さんの実家があった。
バスを待つ間、清水さんの家の周囲を歩いてみた。一回りして玄関前に戻り、赤い郵便受けの表札部分をみると清水さんの名前があった。
バスの時間が迫る。
背を向けられなかった。
そのまま玄関をみながら後ずさりするように、バス停に続く道路に向かって後ろ向きのまま歩く。清水さんが生まれ育った家は私の視野からゆっくり遠ざかっていった。
「ありがとうございます」
ひとりつぶやいた。
(記: 和内)