期日 : 2006年12月29日~31日(前夜発)
メンバー : 清水清二 ・ 塩足京子
報告者 : 清水清二
12月28日(木)晴
新宿~竹宇駒ケ岳神社
60歳過ぎで夜行列車の出発は、シンドイと同時に体にも良くない。28日から冬休みに入れたこともあり、16:00新宿発の列車で韮崎に向かう。韮崎駅前のショッピングセンターで買出しを行い、国道沿いの焼鳥屋で腹ごしらえをして、竹宇(ちくう)駒ケ岳神社に向かい21:00過ぎ早々に眠りに入る。
12月29日(金)晴 風強し
竹宇駒ケ岳神社~七合目
竹宇駒ケ岳神社駐車場5:45出発、駐車場には他に3張りのテントがあった。神社を過ぎ、尾白川を渡り1時間ほど登り、尾白川尾根道なる分岐点でヘッドランプを消す。ここからはジグザグの、落ち葉が降り積もった登山道をひたすら登ること2時間半。痩せ尾根を経て、横手駒ケ岳神社からの登山道と合流する。この頃から、気温の冷え込みを体で感じる。同時に、一見普通の登山道が通路部分のみ凍結しており、重い荷を背負う身ではスリップが極端に体力を消耗する。1時間ほど頑張るがどうにも歩き難く、もはや時間の無駄と割り切りアイゼンを装着、凍結した道を快適に登る。今日、同じ黒戸尾根を登るチームは5パ-ティほどであるが、半数は黄蓮谷を登る人達なのか、立派なダブルのバイルをザックに付けている。やがて積雪の道となり、行動開始から6時間、12:00時前に「刃渡り」のナイフリッジを通過。陽射しがあるところは快適そのもの、しかし日陰と黄蓮谷からの強い吹き上げ風は極度に温度が低い。予想した通り冬型の気圧配置で、気圧傾度もきついようだ。刀利天狗の祠を通過して、黒戸山を巻くように五合目小屋の廃屋に到達したのが14:00前。本日はここまでか、と思いきや、塩足さんはまだ登る気満々、引き続き登る事になった。屏風岩なる、梯子と鎖の連続する登りが続く。軽装備なら難なく登れそうであるが、今回は荷物が邪魔をして思うようにバランスが取れず苦労する。15:30七合目の七丈小屋に到達。七丈小屋は営業しており、管理人は一年中殆んど入っているとのこと(要確認)。本来ならば5分程上部の旧小屋跡にあるキャンプ場の吹き曝しにテントを張ることになるが、この風の中では相当厳しい。管理人の計らいで、小屋の前の整地が出来ている風のないところに幕営をさせていただく。管理人曰く、一年中入っているからちゃんと整地されているんだよ。はっ、ごもっとも!今日のテントは我々の他、単独者のテントが一張のみ。3パ-ティは小屋利用だ。それにしても今日は、尾根の梢に吹き当たる風の音が凄まじい。夜になっても止むけはいはない。
12月30日(土)晴 風相当強し
七合目~八合目手前(行動中止)
2:00から風の様子を伺うが、一向に止むけはいは見られない。28日の予想天気図では、昨日までは気圧傾度が高いものの、本日は移動性高気圧の圏内に入ることから、今日は穏やかな天気を予想していたが、高気圧の張り出しが遅れているようだ。6:00過ぎ、尾根に様子を見に行く。小屋から頂上往復の人達が5~6人出発して行った。7:00テントを撤収し出発する。尾根筋の風は若干収まっているが、森林限界から上部の風は未だ強い。1時間ほど行動し八合目手前辺りまで来ると、大きなザックがまともに風を受けて思うように進まない。空は青空、視界は良好、しかし如何せん風が強い。度々耐風姿勢を取る。重いザックを背負ってバランスを崩したらひとたまりもない。頂上往復ならば何とかなると思うものの、縦走で下降路を探す羽目になったら最悪。日数に余裕がある事だし、明日は好天が期待できることから、本日は速やかに撤退を選択、昨日と同じ場所での幕営を決め込む。幸い、黒戸尾根は甲府盆地と国道沿いに面している事から電波状態が良く、携帯電話、無線機ともに使用出来る条件にあったため、留守本部の安達会員に一日停滞の旨を連絡する。風の無い陽の当たる所はのんびりとトカゲができるのに、何という違いであろう。青空の下、雪煙の舞う山々が印象的である。午後になり徐々に風も弱くなり、頂上を往復、又は黄蓮谷で一晩ビバーグして登ってきた人達が下山してきたが、八合目辺りの風が特に強かったとのことであった。夕刻までのんびりと過ごし19:00早々に就寝する。
(この間、黄蓮谷に向かった「久世会員」が、雪崩の危険性があると判断し、黒戸尾根に転進、中断してここ七合目の我々のテント脇を通り過ぎ、八合目に向かっていた事は知る由もなかった。)
12月31日(日)晴
七合目~甲斐駒ケ岳~北沢峠
天候を期待して4:00起床、昨夜までの風の音は嘘のように無い。朝食、準備を済ませ5:50出発、6:50日の出を迎える。7:00過ぎ八合目に到達、右手を甲斐駒ケ岳に突き上げる黄蓮谷は凄まじい迫力だ。上部より単独の下降者が凄い速さで下ってくる、しかもザックも背負っていない。今日は、我々より先行者がいることは確認していないので不思議に思っていたが7:30遭遇して「久世会員」であることが判明。
彼は八合目で風を避け、沢筋の尾根でビバーグを行い、今朝、空身で頂上を往復して来たとの事。昨日、我々のテントをしっかり確認しているが、鵬翔のテントとは知らずに通過、一緒になれなかったのは残念だ。もっとも久世会員に言わせると、今回中断している手前、ここでヌクヌクとしてしまっては不甲斐無い!とのことであった。10分程歓談して彼は、家族と正月を過ごす為下山して行った。我々は引き続き気を引き締めて頂上を目指す。八合目からの核心部の登りは、狭く急なリッジと雪壁、へつりが続く、雪の付き具合では悪くなるであろう、2ヶ所ほど荷物が大きくバランスが保てない為、踏切がつかずザックを降ろして登り、荷揚げを行い、又一部ではスリングを固定して登った。三本剣、烏帽子岩は顕著な岩に付き立った剣が象徴的で七合目からも望見できる。この岩の下を巻き、ガラ場状の尾根の斜面をしばらく登り頂上に到達する。9:30甲斐駒ケ岳頂上着。風も極端に強くなく、穏やかな登頂日和で、ついつい長い休憩を取る。
掛川隊が来ぬかと暫し待つが体も冷え、10:10北沢峠に向け下降を開始する。頂上から西斜面に続く僅かなトレースを辿って下降を行う。途中、傾斜もきつくなってきた事、方角も若干違うことから、南に方向修正して夏道に合流、駒津峰に到着。12:10交信時間を待って掛川隊と交信する。やがて「掛川会員」から明瞭な感度での入信がある。「後30分で其方に到着しますので待っていて下さい」小生は、てっきり下から登ってくるものと考えていたが、甲斐駒ケ岳頂上から下山中との事、何と我々の下山開始10分後に甲斐駒ケ岳の頂上に到着していたとのことだ。我々が夏道を外し、西面を下降している間に、すれ違ったようだ。彼らは頂上でツィルトをかむり、しばらく我々の到着を待ってくれた。彼らの到着まで駒津峰にて待機、留守本部の「安達会員」からも携帯電話で連絡が入る。合流後、記念撮影、仙水峠を経て、北沢峠に下降した。この後の記録は掛川隊を参考にされたい。皆が一山を登り終え合流できたこと、この嬉しさは酒をいっそう美味くしたのは言うまでもない。以上。
塩足感想
甲斐駒ケ岳は黒戸尾根を含め、何度となく訪れている山である。特に鵬翔に入る前のお正月は、小屋利用ではあるが毎年単独で、仙水小屋をベースに甲斐駒・仙丈であった。冬季に黒戸尾根を登り戸台に貫けるというルートはこの間ずっと思っていた。かつて、やはり正月山行で戸台から入り、黒戸尾根を下った事がある。山を始めて間もない、山を知らないくせに生意気な頃であった。あの時は分からなかったが、先輩に負んぶに抱っこの山行であったと思う。遠い昔の事で記憶が抜けている部分も相当ある。そういった思いが、改めてしっかりあの時のことを思い出したく、今回の正月山行で黒戸尾根を登り戸台に貫けるこのコースを強く希望した。果たしてあの頃とは体力が違うにもかかわらず、重たいザックを担いで縦走できたことの喜びは一入である。下山とはいえ、こんなところを縦走装備で冬季に下ったのかと、昔の仲間の助けを思った。だが今回も、清水さんの、掛川隊のサポートの御蔭があってこそ。山はそうであってよい、そういった仲間の力があるからこそ山が面白い。この度は改めて、仲間の力の素晴らしさを強く思った。単独の山歩きも面白かったが、自分の力が見えなくなった時に事故が起こる。山を続けてきて良かったと思う。改めて掛川隊と合流しての上げ膳据え膳状態の美味しいご馳走に感謝致します。
※ 親父のひとり言(便利だけど迷惑な時代)
黒戸尾根、甲斐駒ケ岳頂上、駒津峰ともに電波状態が良く、携帯電話が使えたことで、何の不安も無く、留守本部の安達会員と連絡を取り合うことが出来た。
只、予想以上の寒気でバッテリーの消耗が激しく、数分でただの金属の塊と化してしまう、テントに持ち込み、バッテリーをこすって暖め、夜は肌身離さずシュラフの中にまで入れている。まるで我が子以上の扱いをしているが、テントの外に持ち出すと、又、数分で使えなくなる。
結局は006P 9Vの外部バッテリーで事なきを得る。
反面、北沢峠の場合、地形的に携帯電話は勿論のこと、ラジオ放送も受信できない、又、アマチュア無線も交信の範囲は限られる。
北沢峠周辺での山小屋の通信手段は衛星通信電話が使用されている。
今回のように、夫々のパーティが、合流を計画した場合、お互いの連絡が取れず、更に悪天候等での停滞等の要素が加わった場合、日程のズレが生じ、予定通りに合流する事は難しくなる。
ここで我々、通信可能な黒戸班は、いきおい七合目から留守本部に携帯で伝言、あわよくば中継役を要請する事となった。(今更ながら親父には考えられないほど、便利な時代になったものだ。)
受ける側としては、無事が確認できるだけ安心は出来るかも知れないが、折角の正月気分だと言うのに、自分が登っているわけでもない雪の山中から、勝手に電話は来るわ、伝言は依頼されるわと、好きな酒も口にせず?・・家族にとっても、迷惑の極みではなかろうかと考えさせられた。(安達会員、留守本部、有難うございました。)
ヒマラヤ遠征でも、何時からかトランシーバーは各キャンプ間の連絡に欠かせない必携装備とされてきた。
出力の大きな物は、高価なうえに、大飯食らいで、大量の電池を各キャンプに配備する必要があり、その調達は装備担当の頭痛の種でもあった。
そのうえ60日間にも及ぶ登山活動中、毎日繰り返される定時交信ほど苦痛なものも無かった。
前進キャンプでは朝から交信前に行進曲「軍艦マーチ」を流される、休養日でも交信時間に寝坊して怒られる、色々な注文は来る、計画した当人でありながら、ずぼらな性格の小生には、唯、煩わしいのみ、それが落雷で壊れて使えなくなったときの喜び、開放感と安堵感は今でも忘れられない(ザマミロといった感じ)。半面、下部のキャンプで待つ身になると、連絡が付かない事が逆に、もしやと言った不安を募らせる。
思い返すと実に身勝手なものだった。
話は変わるが、45年前、当会の先輩たちが行った「積雪期北アルプス全山縦走」の記録は凄い。
(1962年2月6日~4月6日 白馬岳~槍ヶ岳~奥穂高岳(往復)~剣岳)
入山から下山まで、ヒマラヤ登山にも匹敵する70日間に及ぶ長帳場、良くぞ休みが確保出来たものと感心させられる。
当時の発想としては実にユニークであると伴に、現在でも簡単には実施出来ないと思う。
要所々にサポート隊が下界から運び上げる物資と情報以外に、トランシーバー活用された事も聞いていない。記録の凄さもさることながら、連絡手段に関しても興味深いものがある。
(文明の利器も最初から無ければそんなものかと思うかも知れないが?)
小生が近い将来、サンデー毎日になったら、秋に入山、春に下山でやってみたい気がするけど、誰かがサポートをしてくれるかな、出来れば物資だけでなく費用も、(何故なら今回も「宝くじは当たらなかった」多忙で買う暇が無かったから)・・・でも時々は下界の温泉も入りたいな・・・これも悟りの開けない煩悩の空しい初夢か・・・
ついでに、後一言
今回も、あの飯田さんが参加された。何と72歳(本人曰く、今だ72歳)現役会員と同じスピードで登っている。
特に下りはとにかく早い(農耕に駆り出された牛や馬に見られる、動物本来の帰すう本能とも見うけられるが?)あの頑固さ、人三倍の食欲が老化防止と元気を生み出しているのかな。
俺も後10年先、飯田さんの如き、化け物になれるのか、少し心配だ、全てにおいて妥協性がありすぎると自分では思っているから。
他にも80歳を超えた大御所、犬塚会員(昨年は現役の為にテントを寄付していただきました。今年の親睦スキーを楽しみにしておられる)も健在です。
10年、20年先輩が健在では、道はまだ々遠いな~、頑張らなくっちゃー。
今回の「親父のひとり言」は少し長かったかな。でも歳と伴に内に秘めたるストレスも溜まってくるものよ。
次回は別の事を、お知らせしましょう。
(清水)