日時: 2006年12月2日(土) – 2006年12月3日(日)
山域: 富士山(吉田口)
参加者: 坂田(L)・松林・土井・平野・大和田(記)
行程:
12月2日(土)
7:00 新宿駅 – 9:05 スバルライン入口 – 10:20 五合目 – 13:00 七合目
12月3日(日)
4:30 起床 – 06:40 七合目 – 08:45 五合目
話は11月29日の集会にさかのぼる。二次会の席で、私の顔を見るなり、久世さんが、「ホントに富士山、行くの? 寒いよー。暖かくしていったほうがいいよー」という。芳野さんも、「寒いよー、夜は他の人にくっついてたほうがいいよー、人間って、こんなにあったかかったのか、ってよくわかるから」と忠告してくれる。そんな会話とは関係ないはずなのだが、当初、参加予定だった坂本さんは風邪が長引いて不参加、廣岡さんも膝の調子が悪くて不参加。厳しい訓練らしい、とおぼろげに認識し始めたころに、二人もキャンセルするものだから、ベテラン勢のコメントがにわかに現実味を帯びてくる。
もともと私が山歩きを始めたのは、冬山に登ってみたかったからだ。そのためには夏の間歩いていないと話にならないから、やたら脈絡もなく歩き回ってきた。雪山を歩くことだけが頭にあって、今夏を過ごしたようなものなので、鵬翔に入会するやいなや、雪上訓練に申し込んだ。この雪訓は坂田さんと平野さんの剱岳山行の訓練でもあるので、山は全体に経験不足、雪山初めて、アイゼンで雪の上を歩いたことがない、という私がくっついていったら、訓練にならないだろうなあ、とは、ちょっとばかり、思った。ほかのことなら、たぶん遠慮していただろう。だが、ことが「山」となると、私のなかの「ご遠慮モード」が機能しない。参加OKがでれば、確実に行ってしまう。会からOKが出てしまって、一番心配されたのは坂田さんだと思う。事前に事細かに注意のメールをいただいて、絶対に怪我だけはできない、と改めて心に誓う。
2日は7時に新宿駅西口集合、松林さんの車で一路富士スバルラインへ。中央高速から白い富士山が見え隠れする。空は晴れわたり、そのぶん寒さが身にしみる。スバルラインにも、五合目駐車場にも車はまばらだった。見上げると、富士山にかかった雲がむやみに流されていく。風が強いので、山肌から雪と砂煙が舞い上がる。私たちは、支度を済ませ、駐車場から遠望できる南アルプスに背を向けると、登山口へ歩き始めた。平野さんが「寒いなあ」とつぶやく。
今まで、山を歩いていても、富士山に行ってみたいとは思わなかった。理由は、森や水がなく、風ばかりが強い、という印象しかなかったからだ。少し離れたところから見ると、富士山にはジグザグに登山道がつけられていて、山肌に刻まれた傷跡のようにも見えた。だが、実際、登っていくと、それは私の考えすぎだったようで、山がほんの少し身震いすれば、登山道なんてかき消されてしまう。山の鼓動が聞こえそうな気がして、溶岩が砂礫になった登山道に耳をくっつけたい衝動に襲われるが、これまでのように単独ではないので、他人がヘンに思うような行動は慎むことにする。
砂礫になった道を、つづら折れに登っていく。坂田さんの後ろを必死についていくが、とにかく歩幅が合わない! おまけに、心臓が必死に働いていて、苦しい。こんな高度の山は9月以降登っていない。白馬も穂高も苦しかったっけ、と思い出しながら、平野さんが後ろにいてくれるので、先行する3人を追いかけず、自分のペースで歩く。やがて、ここまで気温が低い時期に、これだけの荷物を担いで山を歩いたことがなかったので、シャリバテがいつもより早くきていることに気づく。私は、ふだんでさえ、燃費が悪く、エネルギー補給が頻繁に必要なので、今後は食事の時間と行動食を考慮する必要があると実感する。砂礫の道には、やがて雪がかぶるようになった。
登山道にはところどころに小さな小屋がある。そのうちのひとつの軒先で、風を凌ぎながら、アイゼンを装着することになる。この間も時折突風が吹くので、ピッケルを使って、飛ばされない姿勢をどう作るか教わる。指は幾重にもかさねてしている手袋の下でさえかじかんでしまって、なかなかうまくアイゼンを装着できない。ここでも平野さんと坂田さんから、アイゼン歩行のポイントを指示していただく。坂田さんが「上が安全かどうか見てきます」といって、韋駄天のように上に登っていった。私たちは、慎重に歩いて、2回目の「7合目」の看板を掲げた小屋の脇で坂田さんの合図を待った。結局、上には適当なところがない、とのことで、小屋の上にビバーグ地を求める。ちょうど灌木の下が雪の吹きだまりになっていて、そこをピッケルで掘り崩して平らにならすと、ツェルトが3張はれるスペースとなった。
ツェルトを張って落ち着いてしまうには時間が早いので、アイゼンワークの練習をする。さまざまな傾斜の登り降り、トラバースの仕方、滑落停止の基本を指導していただく。空身なのでなんとかなっているが、これで荷物を担いでいたら、と思うと、少し心許ない。特に問題点は、雪が凍っている場合。力がないので、アイゼンにしろ、ピッケルにしろ、なかなか雪に刺さらない。
やがて空腹を覚えはじめた私たちは、平野さんが一人で西寄りの端に、松林さんと土井さんが真ん中、坂田さんと私で東端に、それぞれツェルトを張る。中に落ち着いてしまうと、ツェルトごとにプチ宴会兼夕飯となった。ひとりではあまりにわびしいので、平野さんが松林・土井組に合流。麓の夜景がまたたく。外気温マイナス14度、晴れ。予定ビバーグとしては好条件である。
やがて消灯。
ツェルトの中から見上げると、月明かりが煌々とあたりを照らしだしている。上空で不穏な轟音がしたかと思うと突風が吹きつける。小さな雪のかけらがツェルトの中に舞う。田部重治は『山と渓谷』の中で、「山に登るということは、絶対に山に寝ることでなければならない。(中略)山の嵐を聞きながら、その間に焚火をしながら、そこに一夜を経る事でなければならない」(岩波28ページ)と書いた。イギリス・ロマン派詩人の研究者であった田部の紀行文は、ときにあまりに内省的すぎて、私の好みには合わないこともあるのだが、このくだりは絶対に支持する。
山に寝て、山の嵐を聞く。
風の音が至福のときを連れてくる。
今夜は、正確には「嵐」の夜とはいえないのだが、テントではなく、ツェルトに寝ているので、疑似「嵐」である。長い夜が始まった。途中、寒いので、寝返りをなんどもうつ。21時頃に外で話し声がして、少し離れた場所で他のパーティーがビバーグを始める音がする。その音も止み、ひたすら闇が広がる。だが、月が明るくて、真上から照らしていたのがずいぶん移動している。足が寒いので、足元においた靴の上に足をのせる。(私はそのつもりだった。)
翌朝、4時半にシュラフから顔を出すと、坂田さんが「起きられます?」と聞く。はい、もちろん。と、そのとき、坂田さんがシュラ