(昔を語ろう)
昨年の秋から今年に掛けて、我が鵬翔山岳会では遭難には結びついていないものの、小さなアクシデントが幾つか見られる。それだけ山岳会の活動が活発になってきたと感じる反面、遭難事故に結びつく可能性も高くなって来たと見ることも出来る。俺もそうだったが入会して2~3年、山登りが楽しく体力的にも自信が付いてくると、実力以上に行動も激しくなってくるのは止むを得まい。生きるとか死ぬとかも考えず、ついつい怖いもの無しの「行け行けドンドン」になってしまう時期もあった。60歳を過ぎた今、俺にそんな元気は無いが、以前そんな時期があったことを思い出し、昔の会報を開いて見た。やっぱりあったよ「馬鹿な時期が」。復刻でもないが、糞の役にでも立つならば恥を晒してみようか。
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昭和40年2月14日(当時3年会員で20歳の大馬鹿時代)
「谷川岳東面、東尾根におけるアクシデント」
「東尾根」それは、私達にとって以前から、何かいわくの有りそうな名前で有り、谷川岳への登路として、一度は登りたいと思っていた尾根でもあった。しかし以前からこの尾根では、鵬翔を含み数回の事故を出しており、尾根だからと言って西黒尾根等と同様に軽く考える事も出来ず、ただ、チャンスを待つばかりであった。そんな私の所に、集会の席で数人の仲間から声を掛けられ、一も二もなく参加の意志表示をして、13日夜上野を後にした。
2月14日、土合のホームは、何時もの冬の外気と比べ非常に温度は高く、空もどんよりと曇っていた。スキーヤーに混じった数人の登山者がホームに降り立った。その中に我々、樋口(4年会員)、丸山、清水(3年会員)、五味(2年会員)の四名も入っていた訳で有る。冬の谷川で感じる、あの眠気を吹っ飛ばしてくれる寒気が全然感じられない。ライトを頼りに、一の倉沢の出合に向う。出合には、すでに8パーティ程が、雑談を交わして夜の明けるのを待っていた。今日の天気の事を気にしつつ、我々もここで夜明けを待つ事にして、ツエルトに入る。6:00私達は朝の食事を済ませ、アイゼンを着けて出合を出発する。一ノ倉沢の中には我々の外、3パーティ程登っており、南稜テラスではビバークをして居るのか、ライトの白光が動いて見えたが、そこから上は濃いガスの為、何も見る事が出来ない。私達は先行パーティの本谷からのトレースを外れ、一の沢に向けて登って行った。四十センチ程潜る積雪も高度が上がるごとに浅くなり雪質は思ったよりも安定して居る。二の沢との中間リッジの安全地より次の安全地へと全力を出して登り、二時間程でシンセンのコルに立つ。下を見下すと我々のトレースの後を、まだ三パーティほど登って来ている。雪崩の危険から解放され安心したところで食事を取る。今日一日は天候急変の心配も無いと判断して登攀を再開する。最初の岩峰には多量のキノコ雪が積っているが雪質は安定している様に思えた。樋口がトップで登り出す。視界が少ない為かリッジの上に立つと非常に高度感が出て、多少の不安が頭をかすめる。次々と岩峰を越え、一の沢、二の沢の中間リッジのつめまで、急な雪面を登り、傾斜のゆるやかな地点まで来た。上空は晴れているのか非常に明るいが、谷川岳頂上は、すっぽりとガスの中に姿を没していて見ることが出来ない、風も無く非常に温かい。稜線までは多く見積つても一時間、この辺で一休みして一気に稜線まで登る事にした。全員、傾斜の落ちたナイフリッジ状の尾根に、ピッケルを立てて、ザックの背負い紐に手を掛けて、肩を抜こうとした時であった。「突然accidentは発生した」。我々は行動中も、もちろんの事で有るが雪屁の出ている尾根では、雪屁を割るまいとして、一の倉沢よりにルートを取り登って来たし、今の休息時も同じように注意をして来た。しかし実際に張り出した雪屁は、我々の考えていた以上に大きな物であった。視界の無い事も、判断を誤った一因でも有ると思う。「ググググ」と、不気味な雪屁の割れる音に「はつ」として前を見たが、その時は、すでにどうする事も出来なかつた(※私の田舎でも屋根に積った雪が雪屁状に張り出し、一定以上に達すると、大きな音を立てて崩れ、庭池に落下する)。雪面が、まるで巨大なナイフで切り取ったかの如く、バックリと開き、丸山の姿が、その中に吸い込まれて行くのと同時に、考える余裕も無く、私の体も空中に吸い込まれて行った。「あっ、しまつた」と心の中で、わめいた時は、すでに私は空間に浮び、凄いスピードで回転しながら雪の中を、落下して行った。私は目茶苦茶に、もがき続けた。口の中、鼻の中には、もうれつな圧力で雪が押し込まれ呼吸は完全に止められ、体中に凄い圧力を感じながら、雪崩と共に落ちて行った。短い時聞だったと思うが実に長く感じ、色々な心配事、父母、仕事、楽しかった事の思い出と、あらゆる事が走馬燈の様に、頭の中を駈け廻る。
今でも田舎の事が頭の中に残って忘れる事が出来ない。
母は囲炉裏端で老眼鏡をかけて縫い物をして居る。冬山に登る馬鹿なガキの事が心配で考えているのに違いない。父は二才に成る兄貴の子供(孫)を抱いて、ラジオを聞きながら囲炉裏の細い火を見つめていた。そして私の耳には、日頃常に聞かれる言葉が頭を割らんばかりの大きな声で、ひびいて来た「お前は親の心配する冬山に、なぜ登る」「目分の力を悟らずに山に来るこの馬鹿者め」。私の一番恐れている事故が、ついに起った。いや起してしまったのだ。体の回転は止まったが、雪の中をエスカレーターに乗った様に一定の速度で落下して行くのがわかる。崩れた雪庇で雪崩が起き、その雪崩の中を私達は流されているのだ。一度流れは止まるかと思われたが又、方向を変えると速度を上げて落ちている。雪崩が七の沢から本谷に入った事が想像された。もはや、水に流される木の葉にしか過ぎない。流れの止まった所は永眠の場と成るであろう。私の頭は又、幻覚に引き込まれて行った。今度は、だれかが新聞を読んで居る、それは、見出しに大きく山の事故が報じられ、仲聞がスコップで雪を堀って居る様子の写真が掲載されていた。私は、その新聞を取ろうとするが、どんなに力を入れても手が届かず、体も動かない。出来る訳が無い、私の体は雪の中に埋まっているからだ。どこまで落ちたら止まるだろうか、考えても無駄な事は、わかり切っている。ただ木の葉の如く流されている、成り行きに、まかせる事しか出来ないのか、何とか助かりたい………。
流れが徐々に遅くなり、止まり始めたのを体に受ける圧力で感じ取った。そして流れは完全に止まった。その後に私は体に受ける雪崩の圧力によって完全に雪の中に埋没する事に成るだろうか。「苦しい空気をくれー」私は心の中で叫び苦しまぎれに頭を持ち上げて居た。「おお空が見える」何と言う幸運か。私は、あまりの明るさに思わず目を閉じて又、静かに開いた。目の前には、かぎり無い太陽の光を受けて真白に輝いている白ケ門、朝日岳の連峰と澄み切った無限の青空が素靖らしいコントラストを作り出していた………。
くちの中の雪を吐き出して、仲間達の名を呼び合う。すぐ近くから皆、元気な返事が帰って来た。「大丈夫か」と叫びながら樋口が走り寄って来た。うまい具合に雪面に投げ上げられたとの事。止まった場所は、マチガ沢、S字谷の上、五味は私の左上方で下半身埋没しておりピッケルで切ったのか、顎に切り傷が見られ、丸山は右上方で腰まで埋って居た。雪圧力は馬鹿にならない、胸はおろか腰までの埋没でも雪崩の圧力を受けた雪の中から自力での脱出は困難、五味、丸山、清水の順に堀り出して貰う。幸いな事に五味以外の三人は、かすり傷一つ負っていない。とにかく全員、生命の肋かつた事を喜び合い、五味の応急手当を済ませ、次に何時、落ちて来るかわからない雪崩を考えたら一刻も早くこの場を下らなければならない。大急ぎでピッケル・ザイル等、目に付く物を集めて、下の森林帯に走り込んだ。西黒尾根から私達の事故を見たのか、盛んにコールがかかって来る。私達の元気な返答に安心したのか、下って行った。マチガ沢のデブリの上を通って、出合の小屋の前に立ち、初めて皆、安心したのか軽い雑談が交された。皆、思い思いにマチガ沢出合からの谷川岳を無言のままに見上げていた。山は何事も無かつた様に、元の静けさに戻っていた。………一時間前あのガスの中を登っていた事、とんでもない距離を落ちて来た事など自分でも信じられなかった。
白毛門が夕日で赤く染まり初めた頃、我々も林道を駅に向って歩いていた。
皆、口を聞く必要も無い、考えている事は、おそらく同じ事だろう………。
「事故の経緯」
1965年2月14日。
14日の天候。雪のち晴れ。谷川岳、一の倉沢出合5:00着。一時間休憩 6:00出発。一ノ沢を登る、ラツセルはヒザまでもぐる程度。シンセンのコル着8:00。第二岩峰10:30通過。稜線手前マチガ沢七ノ沢上部付近より、マチガ沢へ約1,200m、S字谷の上まで落下。原因は雪庇をふみぬいて、雪崩を誘発し巻き込まれたもの。事故発生時間 11:45頃。シンセンのコルからザイルを使用した為、全員一緒に落ちたものである。傷は、五味の頭四針、右腕裂傷。他は無事。水上、長沢医院にて応急手当をする。
帰京後、樋口より、佐々木に連絡。
「委員会反省と助言」
一、天候及び雪の状熊の知識と判断を重視せよ。
二、冬の雪面、特に、ミルク状ガス等には、偏光レンズの使用等を研究する事。
三、個人山行でも、メンバーの編成は重視せよ。
四、以後の個人山行は、委員会で認可する。
五、先人の教訓を目分のものにせよ。
六、個人山行を今までより、もつと活発にして経験を積む努力をせよ。
七、緊張感は、合宿に限らず、個人山行には特に徹底せよ。
等の多くの貴重な助言が我々に与えられた。
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私は余程ドタマに来ていたのか、翌年3月に同期の土屋を伴って東尾根を登った。このときは天候にも恵まれ、ラッセルも無く終始トップで快適に登り、稜線の雪庇を越えて9時には頂上に到達、11時に土合に下山、悪天候を予想して駅に預けておいたスキーを回収、天神平で夕方までスキーを楽しんで帰ってきた。
余談になるが、「雪崩に巻き込まれたら泳げ」って誰かが書いた本で読んだけど、「よく言うよ」水中じゃあるまいし手も足も動かなかったよ、スイミングスクールでも雪崩の泳ぎ方は教えてくれないしね。
こんな記事は所詮、参考にしかならないかもね。人間、歳を取るごとに健忘症が進み体験したことですら都合の悪い事から、どんどん忘れるから。そのうち朝飯を食って1時間もしないうちに「おい、飯はまだか?」といいだすのも時間の問題よ(俺は既に始まっているようだ。何と無く腹いっぱいに、ならんと食った気がしない、多分、飯田さんもそうであろう、そうであって欲しいし、なければいけない)。
山は全てが経験の積み重ね、場数を踏んで、体で覚え乍ら体力で登るもんで、理屈で登るもんでない事は解るよね。ましてや屁理屈になると最悪。事故にあっても、リーダーの判断が悪かっただの、自治体の道の整備が悪いだの、用具のせいだのと、すっかり責任転嫁に走り手の施しようがない。
そういう人は山を登ってはいけません。
(自分が怪我を負って痛くても、他の人にとっては、痛いだろうと思うことは出来ても実際には、痛くも痒くもありません、逆に「ざまみろ」思う人もあるかも知れません、それは夫々の人格次第かな)
山の危険は動物的に体で察知して回避するしか無いんです(それでも雪崩にやられるカモシカもあります)。その為には、失敗を体験して、それを体で覚える事が一番(但し、人に迷惑を掛けず、死なない程度の範囲でやってください、でないと俺達も困るから)。三竹会長が言っているように「登ることは落ちることだ」。しかし基本的には、落ちたら終わりよ、逆に言うとリーダーをする立場なら落としたら終わりと言う事です。まずは、それを体で自覚する事だね。そんな訳で、今のところは俺みたいなミソの足りない馬鹿でも五体満足で生きて続けていられる訳よ。
まだまだ、馬鹿な若僧のときに、しでかした失敗は幾つもあるが思い出したら順次書いてみるから暇つぶしに読んでくだされたし。
(記: 清水)
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