赤石沢(土井編)

坂田さんに説得される格好で、4級の沢、赤石沢に挑戦してしまった。己の技量と秋雨前線に不安を抱えつつ入渓したが、素晴らしい沢旅となった。スリリングな核心部は、きっと生涯記憶に残ると思う。

「土井さん、赤石沢に行きましょう」「入渓しないと後悔しますよ」「沢の王様と言われているんです」「ちょっと難しいだけ。平気、平気」。矢継ぎ早に坂田さんの声が携帯から聞こえる。
坂田さんを疑うわけではないが、調査すると相当難しいようだ。「激流が煮え立つような様から命名されたニエ淵」「振り子トラバースを強いられる5メートル滝」「赤石最難関の洞窟沢」云々…。
同じ日程で東北の大行沢に入るグループもあり、噂によれば舞茸採り放題、イワナ釣り放題という。涎の出るようなグルメな宴会が目に浮かぶ。つい、大行沢に‘逃亡’しそうになるのも人情というものだろう。ところが「来年は赤石沢には行きません」と最後通牒を突きつけられ、坂田さんの説得工作に屈してしまった。
そして、気がつけば、東海フォレストのバスに揺られること一時間、牛首峠に降り立っていた。天気は快晴。ここまで来れば、逃げることは出来ない。

沢1年目の小生にとり、難所は4か所あった。1つ目の核心はニエ淵中間部にあった深い淵。ニエ淵に入ると、小さな釜が相次いで現れ、やがて、この核心にたどり着く。右岸にコブ付きのトラロープが設置されており、先行パーティーはA0で直上、急峻な斜面に突き刺さった古木でビレイしながら高巻いていた。我がパーティーは左岸から突破を図った。まず15メートルほど泳ぎ、岩溝から左岸に這い上がる。さらに、一部ハングした壁をへつり滝を突破した。水から這い上がる際、水中にスタンスはない。細かいホールドを頼りに腕力とバランスで登るしかない。また、へつりも微妙だ。落ちても深い淵だから怪我をすることはないだろう。ただ、水温が低く、再びスタンスのないツルツルの岩を這い上がる気には到底なれない。気合を入れて滝の落ち口に降りる。やれやれである。

次の核心は、過去最悪という評判を冠した右岸5メートル滝のはずだった。2つのリングを頼りに振り子トラバースするらしい。ところが、その5メートル滝が見つからないままチョックストーン滝に達してしまった。ここで、先行パーティーの女性が滝つぼに滑落した場面に遭遇した。容赦なく滝にうたれ、女性のヘルメットが浮いたり沈んだりしている。上で確保している男性のビレイ器がロックしてしまったようで、女性は滝から逃れられないでいる。ロープを切れ!女性を流せ!そう思ったが、ナイフがなかったのか…ロープはピーンと伸びきったまま。ビレイ器を必至に操作している男性に、掛川さんが声をかけた。ようやくロープが緩み、滝芯から解放された女性を坂田さんが助けあげる。「もう駄目かと思っちゃって」。泣き笑いしている女性の唇が尋常ではない。よほど寒かったのだろう。
3人パーティーを尻目に、我々は先を急いだ。この先は廊下状の神の淵は廊下状。ここは泳いで抜ける。廊下の最奥には日が差し込んで、そこ一角の水だけがエメラルド色に輝いている。直角に曲がる岩場には滝の水飛沫が落ち、小さな虹を描いていた。その虹に手を突っ込んでみたが、むなしく空気を掴むだけ。我ながら子供だなと思う。
ここから取水堰堤までは難しいところはなく、堰堤を越えて大休止。

掛川・坂田の2氏から予告されていたが、堰堤から先が本来の赤石沢だ。水量は急激に増え、音を立てて渦巻いている。流れを避けて巨岩を越えるが、空荷でクライムすること2回。先月の双六谷にも巨岩帯があったが、技術的には赤石沢のほうが難しい。渡渉も何回繰り返したかは忘れてしまったが、危うく流されるところを掛川さんに助けてもらった。汚染されているという水をたらふく飲んでしまったのは大失敗。

そして、14時38分、本日のメインディッシュにして2つ目の核心、門の滝が姿を現した。豪傑無比な滝である。音量もすごい。滝の左岸を2ピッチで突破したが、2ピッチ目の泥壁トラバースは本当に嫌らしい。プロテクションなし、しかも外傾して苔だらけの一枚岩をトラバースする。当然ロープを出したが、気を抜けば眼下の滝に吸い込まれそうだ。先行した坂田さんの足跡が苔に刻まれているが、ムーブが異なるので踏み跡通りにはいかない。クラックに手を差し込んだり、雑草を束にして掴み、ソロリソロリと移動。端から見たら、さぞヘッピリ腰であっただろう。安全地帯でセルフビレイできたときは腕に鳥肌が立っていた。

2品目のメインにして3つ目の核心は、大きな淵をもつ5メートル洞窟沢。まず、泳いで洞窟に入る。ヘッドランプ点灯。人工ミ経験のない小生、またまた脂汗と冷や汗の連続だ。アブミのセッティングが身長に合わないため、2段目に立ち込むのに苦労する。穴から抜けると、またシュリンゲを結んだアブミがぶらさがっていた。自信がないため、途中プロテクションなしのフェースへ移動して登る。ここは上から掛川さんにロープを出してもらった。後ろを振り向けば、淵が口を開いて「おいでおいで」をしている。核心を越え、すっかり呆けている小生の隣で、談笑中の二人の会話が耳に届く。「いや~拍子抜けしたね。坂田君、ここ簡単だよ」「そうですね、期待はずれ」。とんでもない猛者たちと来てしまった…。

メイン料理2品を食べたわけだから、レストランならば次はデザートが続き、コーヒーで締めるのだろうが、ここは赤石沢。甘いデザートどころか、しょっぱいガレ場のトラバースと高巻き・渡渉を用意してくれていた。そして、ビバーク地が見つからないまま午後5時20分、渓相が一変した。深いゴルジュなのである。しかも、ラジオラリアの赤い岩を穿つ激流が咆哮して、眼前には急峻なルンゼが落ちている。地図を確認したところ、シシボネ沢出合まで歩を進めたことになる。これ以上は進めないという判断のもと、左岸台地でビバーク決定。心配していた雨も降らず、激流を子守唄にして快適な夜を過ごせた。

2日目は初っ端から大ゴルジュの高巻き。これが4つ目の核心だった。ルンゼを30メートルほど登ると、右側の松林に入る明瞭な踏み跡があり、細心の注意を払いながら高度を上げてゆく。やがて大岩に突き当たるが、岩伝いに直登する20メートル1ピッチが難物。特に最初の3メートルはスタンス・ホールドともに乏しく、坂田さんでさえロープを要請したほどだ。ここは、ベテランの掛川さんがルートを開いてゆく。さすがである。小生は2番手だったが、プルージックが何と心強かったことか。

午前7時40分、高巻き終了。対岸からスラブ状の滝が落ちる、穏やかな河原に降り立つ。「赤石沢は終わったも同然だよ」。掛川・坂田さんは満面の笑みである。この先、難所はないはずだったが、小生にとっては難しい岩が1か所あった。降り始めた雨のなか、腰まで水に浸かり、濡れそぼった岩を登る。スタンスなし、手を思いっきり伸ばした左側にガバが一つあるだけだ。ここも坂田氏のアドバイスに鼓舞され突破できたが、果たして単独だったら越えることが出来ただろうか。大いに疑問である。

山小屋に泊まるのは本当に久しぶりだったが、揚げたてのトンカツにありつけるとは思ってもみなかった。衣もサクサク、パーフェクトな夕飯だった。こうして、素晴らしい仲間と、そして大いなる運にも恵まれ、2007年の夏に無事終止符が打てた。ガイドブックで3泊4日と紹介されている沢を、2泊3日で通り抜けられたのも、掛川さん、坂田さんのおかげ。ありがとうございます。帰宅して風呂に入ったら、あちこちに痣が出来ていた。赤石沢遡行の勲章だろうか。

(記: 土井)

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