古い記録ですが、1980年のパタゴニアの記録を紹介します。
写真はフォトアルバムにあります。
パタゴニア登山隊報告
1979年11月15日~1980年3月20日
メンバー L 岩永慎太郎(33期)井上 茂(35期)轟 哲之(35期)
〔記:岩永慎太郎〕
1975年11月15日~1980年3月20我々はヨーロッパでの登攀を終えるとパタゴニアのフィッツ・ロイ山群へ向かった。目的は、セロ・トーレ氷壁登攀であったが、船便の荷物の遅れと悪天候のため、セロ・スタンダルトの試登に終ってしまった。
パタゴニアは、南アメリカ大陸のリオネグロ以南の広大な地域の呼び名で、アンデス山脈の西と東に分けて、チリとアルゼンチンにまたがっている。フンボルト寒流の冷たく湿った空気が南西からこの山脈に吹き付けるので、西側のチリでは降雨・降雪が多く大陸氷床が広がり、樹木も点在する人家の周囲しか見ることが出来ない。パタゴニアは南にいくほど天候が悪くなりマゼラン海峡付近では年に3・4日ほどしか晴天の日がなく、風速20m以上の風が絶えず吹き荒れている。
その最南端49度付近、南氷床と呼ばれる地域にフィッツ・ロイ山群がある。南西風と氷河に磨かれた、鋭く尖る岩峰の頂には絶えず吹きつける強風と湿雪のため巨大なマッシュルームと呼ばれる氷塊が付着し、荒天の後には垂壁やオーバーハングもこ氷で覆いつくされる。
この山域では、過去にアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本などの強力なパーティーが登攀を試み、ポピューラーなフィッツ・ロイは7本のルートが開拓されている。西側に位置するセロ・トーレはコルコンクエストからの初登攀以来、西側より二回それと前後して東南量より同じく2回登られた。また、隣のトーレ・エガーは、1981年3月末、昨年に続き2回目の挑戦で2人のイタリア人がと東面から完登。今回私たちが試登したセロ・スタンダルトは、2人のイギリス人により既にトレースされている。
この岩峰は標高差約900m、ルートは大きく3つの部分に分かれている。最初の400mがセラックの乗越し、そして右端のコルまで突き上げる急峻なクーロアールの登攀、そこからスラブを左上しランぺ状の氷田へ出る。ここまでが300m。最後に200mあまりのスラブが頂上へ続く。その上にまた氷のマッシュルームが聳えているが、これはまだ登られていない。初登攀は頂上直下の肩にトップが達しただけである。
私たちは、キャンプ場からフィッツ・ロイ川に沿って8キロほど遡り、トーレ湖の手前の森にBCを設営した。ここに食料を上げ更にトーレ氷河をつめ左岸を登ったガレバにある岩小屋をABCとした。
だが、1月から2月は晴れた日が5・6日しかなく、その晴天も2日とは続かなかった。2回のアタックを行ったがヒエロコンチネンタル〔氷床〕を望める右端のコルに達しただけで下降を余儀なくされた。
この山域ではポピュラーなフィッツ・ロイのアメリカン・セロトーレのマエストリのルート以外は残地ハーケンも少なく、多数の各種ピトンが必要となる。また、外見以上に氷の発達が著しく、悪天候の登攀を強いられるため東面西面にかかわらず氷対策を充分に取る必要がある。
セロ・スタンダルトも複雑に氷が付着していた。今後、3000mはあるフィッツ・ロイ西壁、2000m近く垂直にそそりたつセロ・トーレの南東壁が登山者の課題となろう。
(行動記録)
1979年11月15日 アルゼンチン・に着く。
※ 12月上旬入山予定が船便の遅れのため、ブエノスアイレスで待機
1980年 1月11日 リオ・ガジェーゴスに軍の飛行機で向かう。
1月19日 リオ・ガジェーゴスより軍のトラックで麓のキャンプ場(LagoVIEDMA)に到着
※ 入山が遅れたため、セロ・トーレ西壁からセロ・スタンダルトに東壁に変更する。
24日 森林限界のトーレ湖脇の森にBC設営
※ 悪天候が続く。
2月17日 午後岩小屋(ABC)を出発。70度の氷壁を登りコルにてビバーク。
2月18日 無情にも暴風のなか、下山。BCまで戻る。
2月25日 全ての登山活動を終了。軍のトラックでカラファテに向かう。
3月 2日 カラファテから飛行機にてリオ・ガジェーゴスへ到着。
3月 8日 軍の飛行機にてブエノスアイレスへ
3月21日 ニューヨーク経由で井上・轟帰国
4月20日 岩永残務整理を終えて帰国。