(昔を語ろう)part 4 マナスル(8,156m)西壁編 (糞ならぬ金に詰まった遠征隊)
その一、ヒマラヤ遠征は甘くなかった
1971年、俺にとって初めてのヒマラヤで、しかもいきなり8,000m峰に行くことになってしまった。
登山隊での海外遠征経験はもとより、高所の経験も無かったので、今にして、いい経験が出来たと思っているけど、実際は滅茶苦茶、とにかく大変な登山だったよ。
俺がネパールヒマラヤのマナスル(8,156m)西壁登山隊に加わったのは、前年の1970年の夏に計画が固まり、本格的な準備に入る時だった。
1962年の春、全日本山岳連盟主催で行われた「ジュガール・ヒマール・ビッグ・ホワイトピーク(7,083m)登山隊」(鵬翔山岳会から副隊長として中野さん、隊員として故 高島さん、故 安久さんが参加され、何れも登頂)の隊長 高橋 照さんが再び隊長で計画され、個人負担50万円で参加できるとの事で、この程度ならなんとかなると考え参加を表明した(1968年のヨーロッパ・アルプスは3ケ月間で約40万円位だったと思う。)
大先輩の中野さんから「遠征は大変だぞ、充分に注意しろよ」と言われたが、俺も純粋と言うか馬鹿と言うか、
意味が良く理解出来なかったから、深く考えもせず50万円の個人負担金を支払い仲間に入れて貰った。
食糧、装備、輸送、資金と夫々の担当に割り振られ、準備が進められていった。私は雨宮さんと装備を担当した。
遠征隊の予算が限られている為、食糧、装備に関しては、如何に寄付でまかなうかがポイントとなる。
今、同じ事をやったら、時代錯誤もはなはだしいと笑われてしまうが、我々も過去の登山隊の例にならってリストを作成し、企業、団体を訪問して寄付を依頼した。これが半年掛かりの大変な作業だった。直接の飛び込みと、知人の紹介と訪問先の数は数十件に及び、根気良く続ける事になる。
自分たちがヒマラヤを登る為に、物資を只でくれと言うんだから、常識的に考えれば実に虫の良い話しである。
日中は仕事の合間を見つけ、企業等を訪問し(背広を着た乞食とは、よく言ったもんだ)、夜は連日の如く、打ち合わせが行われ、11月になると倉庫に集まった物資の梱包作業を行う。物資の集荷からカートン詰め、クレート組み(カートンを幾つか組み合わせて木枠で囲み、釘と鉄ベルトでまとめる)、果ては輸出用のインボイス、パッキングリストの作成まで全て自分たちで行う訳だが、これらの作業に必要な倉庫は無償で借用、梱包材料は寄付に頼る事となる。
漸く、全てが揃った12月、登山隊の荷を横浜に運び通関を経てインドのカルカッタに向け、船便で発送した。
12月に入り、送った荷を現地で受け取り、キャラバンの出発地であるネパール第2の町ポカラまで陸送する為、輸送担当の隊員が先発でカルカッタに向かった(この時点では、まだ資金が集まっていない為、先発隊員の航空チケットは片道分しか購入されなかった)。
年が開け、1971年1月年には東京都山岳連盟主催で盛大な壮行会が催され、私の田舎でも壮行会をやってもらった(今では珍しい光景だが、バンザイ三唱やら、まるで出征していくような賑やかさだった)。
後は我々本隊の出発までに資金集めが残るだけとなったが、資金に関しては社会的地位も無い俺のようなサンピンでは出来る筈も無い。資金担当の隊長にお任せしかない(全隊員がそう思っていたさ)。
ところが、これまた吃驚して、ひっくり返るような事態になっちゃった。
出発まで後半月くらいかな、テレビ、新聞等の有力スポンサーが決った話しが無いので、皆で隊長に確認したところ、何処も決らず、全く当ても無い事が判明したのだ(一時、マッツサオ!!と同時に呆然)。
焦ったね、我々の支払った個人負担金はとっくに使われて何も無い状態だったんだから。
このままじゃ計画を中止せざるを得ない。色んな企業、団体から寄付をいただき、ど派手な壮行会もやっていただき、新聞にも大きく発表され、大風呂敷を広げるだけ広げてしまって、それは無いよ。
計画を中止した場合、我々は支払った個人負担金は放棄し、先発隊は現地で登山隊の荷を換金してチケットを購入して帰るか、隊荷を売ったお金で全員が、トレッキングに行き、ほとぼりが冷めた頃に帰国する(今更そりゃねえだろ、ここまで来て悪りぃ冗談も程ほどにしてよ!)。
計画を実行する場合、一人当たり、更に50万円の負担が必要となる(俺なんか有り金すべてを叩いているんだから、後はもう屁も出やしねえよ、他の隊員も同じだった)。
結論として、中止するよりも支払った50万円の個人負担金を活かす意味で計画は実施、不足資金は徹底的にコネを頼ってでも、借りまくる事になった。
とは言っても、世の中そうは甘くない、俺に社会的地位があるわけでもなし、これと言ったコネもなし。
人の分まで面倒を見られないながらも、自分の再負担分くらいは、何とかせねばと思ったが、全く宛が無い。
もしもの場合にと、受取人名義をお袋にしていた生命保険の解約から始まって、コレクションのカメラの売却まで、金に換えられるものは、とにかく金にしたが、雀の涙くらいにしかならなかった。
最後に泣きついたのが、六日町の実家(親父は大工の棟梁であったが、酒の飲みすぎか、脳卒中で倒れ、寝たきり状態で、長兄が実家を継いでいた)。特急、急行の料金も惜しみ、夜行列車で借金に行った。(以前、ヨーロッパに行った折も、兄貴からは20万円ほど借りている。このときの借金は40万円だったか50万円だったか、残念ながら記憶から飛んでしまった)。
兄貴からは、懇々と「これは子供の為の養育費だが、お前の窮地の為に用意した。帰ったら一年以内に返済しろ、兄弟だから担保までは要求しないが利息は先に引いておく」。
実際には依頼した金額から10%引かれた額の小切手が渡された。以前の時と同じだったが、その時は「コンチキショウ、何と冷たい兄弟か、死んでも恨んでやる」と思ったね。でも後で考えるに、その都度、兄貴は自分の貯金を担保に農協から借りていたようだった。
家業を継いだ因果で、馬鹿な弟の道楽の為に、資金まで用意せざるを得なかったと思うと、長兄は大変だと思う。
生命保険まで解約した俺が、若しかして、おっ死んでしまったら、返済どころか、葬式代まで出す羽目になっちゃうんだから(泥棒に追い銭とはこのことかな)。
当たり前の事だが、俺はその都度、差し引かれた利息を含め、きちんと返済した(悪戯に考えれば、それを繰り返し、適当な額に膨らんだらドロンという手もあるのだが)。山に行く為の借金は、これが最後だった。
そんな事で俺は何とかなったが、当然、負担できない隊員もいる。
少しでも多く借金が出来る人にお願いして、何とか調達できる事になり、出発の目途が立ってきた。
登山隊は日本を出発出来れば90%は終わったようなものだと先人から聞いていたが、まさにその通りだ。
つくづく感じたね。
一見、派手やかな海外登山も内情を明かすと、全然、きれい事じゃあありません。
人生は「お金じゃない」と教えられたことがあったし、俺もそう思ったが、ヒマラヤはやはり、最後はお金だった。
何故ならば、ネパールまでは歩いて行く訳には、いかんからね。
借金したからって死ぬわけじゃなし、出来ると言うことも財産のひとつよ。(サラ金は別だよ)
今にしたら、いい経験になったね。
この教訓が生きたのか、自分が企画、参画した遠征において、この様なトラブルは発生していない。
やっぱり、体で覚えるって事は大切だよ。特に俺の場合は、馬鹿な頭で覚えるよりは、身に応えないと駄目だって事かな。
(記: 清水)