朝日軍道について
先日アップした記録の補足です(清水さんから)。
アルバムはこちら。
2005年から3年間の残雪期は、歴史を山行のテーマとして、北越戊辰戦争に散った幕末の長岡藩家老、河井継之助が越後から会津に逃れる際に辿って時世の句「八十里腰抜け武士の越す峠」で知られる「八十里越」越後から会津只見までの32kmの足跡を辿る山行を行ってきた。
『2005年』現在でも地図上で八十里越として残されている越後側の吉ケ平~番屋乗越~空堀~鞍掛峠~木ノ根峠~会津側の新道(明治27年に改修された道)を辿り叶津に至るルートを歩いた。
『2006年』八十里越の古道が通っていた早坂尾根とその終着地と思われる沼の平周辺の調査を行った。それとは別に浅草岳に登った。
『2007年』守門岳~袴越~鞍掛峠~木ノ根峠~早坂尾根~沼の平~叶津への会津側の古道(実際には殆ど残っておらず推測で僅かな痕跡を追った)を辿った。
八十里越も一応の区切り(自己満足に過ぎないが)が付いたことから、朝日軍道を次のテーマとして掲げてみた。
朝日軍道の山行を開始するにあたり、これにまつわる歴史について説明をしてみたい。僅かの知識を基にまとめたので、間違いがあったら指摘いただければ幸甚です。
朝日軍道については、私の郷里(南魚沼市: 旧六日町)にある坂戸山(坂戸城跡)を訪れたことで直井兼続の人物像に興味を引かれた事と、昭文社の「山と高原地図」朝日連峰の別冊に載っていた朝日軍道の紹介ページにより私の山登りと結び付くこととなった。
小説「天地人」火坂雅志氏著の文中にも朝日軍道開削の記載があり、興味をもってNET検索をしたところ、大江山岳会顧問の鈴木博氏 他、地元の方たちの調査登山記録が紹介されており「俺もいかにゃ」という気持ちになった。
私自身、朝日連峰を訪れたのは恥ずかしいながら、今回が初めてである。
朝日軍道は山形県長井市の長井草岡から朝日村鱒淵までの65kmに及ぶ朝日連峰を縦断する長大な軍道で、開削が行われたのは今からさかのぼる事400年前の事であった。
上杉謙信の養子として、同じ養子であった上杉景虎(北条氏康の七男)との家督争いを勝ち抜き、越後国主となった上杉景勝が、天正14年に豊臣秀吉と盟約、のち豊臣政権の繁栄に貢献、慶長3年(1598年)120万石、歴代3位屈指の戦国大名として会津に国替えを命ぜられる。謙信、景勝と2代に渡り上杉家に仕え、謙信を師と仰ぎ兵法を学び、景勝の参謀役として米沢、庄内に30万石を与えられたのが2009年のNHK大河ドラマ「天地人」の主人公で上杉家の智将と言われた「直江山城守兼続」(1560 – 1620)である。
上杉景勝(旧姓:長尾)は弘治元年(1555年)越後、坂戸城主「長尾正景」嫡子として生まれる。母、仙洞院は上杉謙信の姉である。父、正景の急死により僅か10歳で坂戸城主となった。
兼続は永禄3年(1560年)長尾正景(景勝の父親)の家臣「樋口兼豊」の長男として生まれ幼名は与六と言われ、幼くして景勝の近習となり景勝が上杉家の養子に決まると家臣として春日山城(現在の上越市)に移り、後に越後の名門「直江家」を継ぎ上杉家の執政(政務一切の統括者)となった。
私の郷里、六日町(現在の南魚沼市)の坂戸城跡(南魚沼市)には景勝、兼続の生誕の地としての碑が建てられている。
私が小学生の頃、六日町の民謡「お六甚句」を覚え、盆踊りはもとより、運動会等でもフィナーレとして全校生徒で踊ったことがあったが、お六が直江兼続の少年時の「与六」であったことは知る由も無かった。
直江兼続は主君の上杉景勝に従って朝鮮出兵にも加わったが、略奪をほしいままにした諸大名と異なり、戦火により多くの文献、書物が失われるのを惜しみ持ち帰ったと言われている。
上杉景勝が豊臣秀吉から会津と共に賜った領地には庄内と佐渡の飛び地があった。
佐渡は遠隔地であり致し方なかったが、庄内は豊かな穀倉地帯としても重要な領地であった。
庄内は東北における戦国大名の最上氏との戦いにより上杉の領地となった事から、米沢の北部(今の山形市)隣国関係ながら宿縁の不仲にあった「最上出羽守義光」(1546~1614 伊達政宗の伯父)との庄内の領地をめぐる争いは絶えず、米沢と庄内を結ぶ上で最も利便性が高い最上領内の交通が出来ない状態であった。
その為、米沢と庄内の交通手段は会津-越後-村上(新潟)-庄内。又は会津-小国-村上-庄内と何れも遠い迂回路を辿る必要があった。
開削に当っては「兼続」の親戚関係であった「樋口惣エ門」が指揮をとっている。
最上の領地を通らずに米沢と庄内をつなぐ軍用道路として朝日軍道の開削が行われ、多くの兵士、軍馬が通行したと言われている。
豊臣秀吉の没後、天下統一を目論む徳川家康にとって、従順を拒み豊臣への忠誠を正義とする上杉家に対し、機あらば上杉討伐をとその口実を窺っており、兼続あてに厳しく糾弾してきた。それに対する兼続の返書は家康をして激怒ついでに感心させたと言う「直江状(本状が呼び水となり天下分け目の戦い、関が原の合戦が起こったとされている)」は広く知られている。
上杉討伐の大軍が小山に付いた時、大阪で上杉氏と昵懇であった石田三成らが家康打倒の兵を挙げた為、会津をまえにして家康は突如、西に反転することになった。
慶長5年(1600年)上杉軍は再び来攻する徳川軍に備え、米沢城主「直江兼続」による会津背後にある敵国、山形城主「最上義光」への三方攻めが行われたが、関が原の合戦で上杉家が加担していた西軍が大敗したことで、天下の形勢を読んだ兼続は速やかに米沢に軍を引く。その結果、庄内の東禅寺城主(今の酒田市)「志駄義秀」1560~1632)は孤立状態となり、慶長6年3月(1601年)最上氏の大軍に抗しきれずに開城し、雪の朝日軍道を米沢へ逃れている。
朝日軍道は現在の地名で言うと「長井草岡から朝日連峰の南端-長井葉山-焼野平-中沢峰
-御影森山-平岩山-大朝日岳-西朝日岳-竜門山-三方境-白岩原-以東岳-三角峰
-戸立山-茶畑山-芝倉山-葛城山-高安山-兜岩-猿倉山-八久和峠-鱒淵村」と言われている。
途中、西大朝日岳から三方境の約6kmは西側を村上氏の領地で東側は最上氏の領地あった。開削に当っては既に使われていた「信仰登山道」「マタギ道」や「ソマ道」を繋いだともいわれている。
しかしこの軍道も、東国(出羽)が最上義光により平定され軍事的緊張が薄らぐと、その必要性もなくなり、廃道となった。
徳川の時代になり、家康と鉾を交わすことなく敗者の側に立った上杉家は会津120万石から米沢30万石に移封となり、東軍についた最上家は「出羽山形藩」の初代藩主として57万石の大大名に成長、繁栄を極めたが義光の没した9年後、元和8年(1622年)家督争いが元で改易されたと言われている。
最上家は大名の座から消えたが、幕府の旗本の高家として残り、義光の四男・山野辺義忠の家系は水戸藩家老として明治維新を迎えた。
テレビドラマの水戸黄門(徳川光圀公)に登場する国家老「山野辺兵庫」は義光の孫にあたると言われている。
朝日軍道の南端、長井草岡から長井葉山を経由した三角峰までの約40kmは登山道になっている。
長井葉山に至る登山道は一目でそれと解かる幅の広い九十九折の道であるが、長井葉山から前御影を経由して御影森山へ至る道は通る人も少ないのか、かなり不明瞭だった。西朝日岳、以東岳には顕著な九十九折の軍道跡が今でも残っていると言われている。
三角峰から鱒淵村に至る約25kmは登山道からも大きく外れており、400年を経た今では軍道の痕跡が残っているかは全く不明であり、残雪期でもない限りは辿ることは出来ないと思われる。
軍馬の行き来を想定した場合、距離から見ても1日での通過は不可能と思えるし、道幅もそれなりに確保され、雨風を凌ぐ為、あるいは宿泊用の小屋、水場等が要所々に確保されていたのではないかと思われる。これらを想像しながら昔の足跡を辿るのもまた楽しいものである。
出羽三山は昔から信仰の山として知られていますが、ホームページで検索すると、その歴史は遠く室町時代以前から行われていたようです。
室町時代には今回我々が通過した長井葉山が湯殿山、月山と共に出羽三山とされてきた。
更にその前は長井葉山、月山、鳥海山を三山としてきたようです。
現在の羽黒山、湯殿山、月山が出羽三山として一般化されてきたのは江戸時代半ばからのようです。
(出羽三山の歴史に関しては長井葉山を登ったに過ぎず全く知識に乏しいのが現実ですので、何れはこれらを訪れて長い歴史に触れてみたいと考える。)
今回は朝日軍道の南端から入山し、竜門山までの約3割を歩いた事になる。竜門山から三角峰までは無雪期に登山道を辿ることが可能だが、それ以北の25kmをいかにして辿るかが、アプローチも
含めて模索中といったところである。
(記: 清水)