2018キリマンジャロ レモショルート

2018824日〜29

参加者:林

 

行程

8/24(1日目) REMOSHO GATE(2100m) – Big Tree CAMP(2780m)

8/25(2日目) Big Tree CAMP(2780m) – SHIRA2 CAMP(3900m)

8/26(3日目) SHIRA2 CAMP(3900m) – LAVA Tower(4640m) – BARRANCO CAMP(3960m)

8/27(4日目) BARRANCO CAMP(3960m) – BARAFU CAMP(4640m)

8/28(5日目) BARAFU CAMP(4640m) – STELLA Point(5730m) – UHURU Peak(5895m)

BARAFU CAMP(4640m) – MWEKA CAMP(3080m)

8/29(6日目) MWEKA CAMP(3080m) – MWEKA GATE

 

 

 

 

2018年夏、アフリカに行ったのでせっかくだからアフリカ大陸最高峰キリマンジャロに登って来ました。

 

 

8/23(0日目)

 登山開始前日にタンザニアに入り、キリマンジャロ登山の起点となるモシという町に向かう。モシの町で登山に必要な手続きを諸々済ませる。日本から現地ガイドには連絡をしてあったので問題なく手続きは進んだのだが、ある程度の金額をキャッシュで払わなければならなかった。USドルで払うつもりだったのだが、タンザニアに来る前に手持ちのUSドルをほとんど使ってしまっており現地のATMで現地通貨を引き出すことに。その時のレートが1USドル=約2300タンザニアシリング。500ドルほどキャッシュで払う必要があったので約120万タンザニアシリングが必要になる。1万シリング札で120枚。物価の違いからなかなか手にする機会がないであろう量の札束をATMから引き出しリッチになった気分に。

 

 

8/24(1日目)

 9時出発って聞いてたのに8時過ぎにはガイドさんがご丁寧にホテルの部屋まで迎えに来てくれる。ここでは約束の時間は当てにしてはいけない。急いで朝食をとり準備。

キリマンジャロは現在ガイドを付けないと登ることが出来ない。それに加えポーターやコックもパーティーに加わる。私のパーティーはガイド1名、コック1名、ポーター4人に私を加えて計7人。たかだか1人登るのになかなかの大所帯だ。

 

 

 モシの街から登山口までは車で向かう。キリマンジャロには登山ルートが何本かあるが今回私が選んだのはレモショルート。距離は長いが比較的入山者が少な(いっぱいいた。。)、キリマンジャロを西からぐるっと回り込んでいくため景観が良いとのこと。そして場所によってはシマウマやバッファローが出てくることもあるらしいのだ(これが決め手。出なかったけど)

 

 

 道中、入山の手続きやポーターの荷物チェックが入る。ポーターの荷物は1人あたり上限が20kgとのこと。過酷な仕事ゆえ荷物が重すぎると体を壊してしまうのだろう。ただ上限の20kgに加え自分用の荷物も多少あるので結局30kgくらいになっているように見える。

 

 

 なんだかんだしているうちに時間も経ち歩き出したのは13時頃。最初は熱帯雨林の中を歩いていく。ガイドのバルタザァリはとてもゆっくりゆっくり歩くので息も上がらずのんびりと。2時間半ほどで初日のキャンプサイトに着いてしまった。先に登っていたポーターさん達がすでにテントを立ててくれている。しかも中に入ってびっくり仰天。テーブルにお茶セットとポップコーンが用意されていた。至れり尽くせりである。夕食に魚のフライと山盛りのポテトが出てくる。揚げ物をするために油も担ぎ上げて来ていたようだ。おかげさまでボリーム満点で大変美味しゅうございました。

 

 

8/25(2日目)

昨夜の夕食に続き山盛りの朝食をいただく。見せてもらった食材のかごにはアボガドだのパパイヤだの生卵だのetc…まだまだ多くの食材が今か今かと出番を待っている。どうやら太ってキリマンジャロから帰ることになりそうだ。

 

 

この日はシラ2キャンプまで15kmほどの行程。昨日よりバルタザァリの歩くペースが早くなっている。ちょっとは歩ける奴って認めてもらえたのだろうか。ポーター達とも抜きつ抜かれつ。標高3600m程までくるとただっ広いサバンナが広がっていた。富士山頂に近い標高にこれだけの平原が広がっていることにアフリカのスケールの大きさを感じさせられる。

 

 

ここから先は傾斜の緩い道を登っていく。バルタザァリはしきりにポレポレ(スワヒリ語でゆっくりの意味)行こうと言ってくる。ポレポレ歩く。

 

 

キャンプサイトに着くとまたお茶を飲み山盛りのご飯だ。ここまで来ればキリマンジャロが目の前に見えるはずなのだが曇っており見えない。タンザニアに入ってから山には雲がかかっておりまだ1度もキリマンジャロを見れていなかった。

 

 

周りを見ると自分たち専用の持ち運べるトイレを持って来ているパーティーがちらほらといる。キャンプサイトには共用のトイレもあるのだがそれを使いたくないらしい。そんなに汚いわけでもないのに。トイレを持ってくるにはそれを担ぎ上げるポーターが必要になる。それによってポーター1人分の仕事が出来る。もちろん共用のトイレも誰かが掃除して管理してくれているから使うことが出来ているのだけれども。理屈はそうなのだけれども、私はどうも自分の使うトイレを人に担がせるという行為には抵抗を感じてしまう。何かそれは違うような気がする。

 

 

夜、目が覚めてテントから顔を出すと雲が切れており、目の前には月明かりに照らされたキリマンジャロが広大な裾野を広げていた。

 

 

8/26(3日目)

今日は高所順応のため一度標高4640mのLAVAタワーまで標高を上げた後、3900mのバランコキャンプに向かう。今まで登った最高点が富士山頂の自分にとってはここからは初めての標高になる。キャンプを出てからゆっくり歩いて3~4時間でLAVAタワーに着く。高山病の兆候もなく体調も問題ないようでホッとした。

 

 

ここまで問題なく歩けているのはほぼ空身でいる影響が大きいと思う。荷物は全てポーターが持ってくれるので自分で持つのはカメラと雨具と水と行動食くらいだ。片やポーター達は大きな荷物をズタ袋に入れて頭の上に乗っけたりオンボロのザックに入れて運んでいる。中にはジーンズ姿であったりボロボロのスニーカーを履いている人もいる。海パンの人もいたような。。我々の考える登山の装備やウェアなんて彼らには御構い無しだ。もっとも貧しい人が多くそんな装備を買う余裕なんてあるはずもない。生活のためにここで仕事をしているのだ。日本から来て言ってしまえば遊びのために山に登っている自分に比べて、生きるためにあり合わせの装備とも言えない格好で山に登る彼らはとても強い存在だと感じさせられた。

 

 

そして3日目になって確信したことがある。どうもこのパーティーの皆さんはトイレの近くにテントを張る傾向があるようだ。便利なようにと気を使ってくれているのかもしれないけれど、ぼっとん便所の風下ともなるとさすがにちょっと。。。

 

 

/27(4日目)

 本日は最終キャンプであるバラフキャンプに向かう。朝からガスがかかっており出発してすこしするとあられが降りだした。結構な降り方でしばらくするとあたり一面うっすらとあられが積もってしまった。

 

 

 途中にあったキャンプサイトで昼食をとる。昼食をとるためにテントを立てて、調理した暖かい昼食を用意してくれた。これ食べている間に最終キャンプまで行っちゃってそこでしっかり休んだ方が良いんでないかい、とか思ったり思わなかったり。しっかりお昼を食べて最終キャンプに向かう。

 

 

 最終キャンプの標高は4600m。ここにきて多少の頭痛を感じるようになった。急激に動くと息切れもする。空気が薄いことを実感させられてしまう。さて、明日はいよいよ頂上アタック。夜の1時に出発するとのこと。順調にいけば明るくなる頃にはピークに着くだろう。食事をとりさっさと寝て体を休めることにする。18時ごろには就寝。

 

 

8/28(5日目)

 予定通り深夜1時にバラフキャンプを出発。睡眠をとったことで出発時には頭痛は収まっていたものの歩きだしてしばらくするとやはり軽い頭痛がする。何度もキリマンジャロに登っているバルタザァリでも頭痛がすることはあるとのこと。しかし5000mを過ぎたあたりから呼吸が苦しくなってくる。呼吸を意識して深く息を吸う。急激に動かないようにする。それなのにバルタザァリは前の人を抜きたがる。頂上に向けて人が多く行列になっている箇所もあるから気持ちもわからないではないのだけれど。「よしっ行くぞ」って行列の脇を小走りに抜いていく。やめてくれっていうのも悔しいからわたしもそれについていく。苦しいんだよ。

 

 

 この日は満月。月明かりでヘッドライトなしでも歩ける。時折冷たい風が吹き上げる。

何だかとても気持ちが良い。

 出発から4~5時間でステラポイントと呼ばれる場所に着く。キリマンジャロの最高点はウフルピークという場所なのだが、ステラポイントまででも一応登頂として認められるらしい。富士山でいうとステラポイントが頂上浅間大社でウフルピークが剣ヶ峰といったイメージだろうか。

 

 

 この辺りから、どうも意識がふわふわした感じになってきた。これは結局テントに戻るまで治らなかった。後から気がついたが高度からくる眠気だったように思う。本当に眠かった。

 

 

 ここからウフルピークまでさらに1時間ほど。氷河が現れて場所によっては氷の上を歩いていく。ウフルピークに着くタイミングでちょうど雲が切れて眺めが良くなった。いいタイミングだ。ピークは写真をとる登頂者でごった返しており当然私もその中の一人に加わる。バルタザァリと一緒にピークの看板前で写真をとり登頂を喜び合う。やっぱり頂上は嬉しいものだ。

 

 

 あとは下るだけ。眠気と格闘しつつ今来た道を下りキャンプへ。待っていたポーターさん達に登頂成功したことを伝えると、彼らも喜んでくれた。ありがとう。キャンプでしばらく休憩したあとは、さらに標高を下げたところにあるムウェカキャンプまで一気に下り、頂上アタック日の行程を終える。

 

 

8/29(6日目)

 キリマンジャロ登山も今日が最終日。最終日と言っても昨日登頂しているので今日は下山するのみ。出発の準備も終わりいざ出発というところでパーティーのみんなが歌を歌ってくれた。キリマンジャロの歌。彼らにしたら仕事の一部かもしれないのだけれども、私のために歌ってくれるその行為は、少し気恥ずかしくもあったがとても嬉しかった。

 

 

 最後にみんなに感謝を込めてチップを渡す。仲介しているオフィスからもらう給与は十分とは言えない金額らしく、このチップが貴重な収入になるとのこと。そういうことならケチらずに払おう。良い仕事に対してはそれなりの対価を支払うべきだ。良いチームだった。おかげさまで無事キリマンジャロに登ることが出来ました。みんなありがとうございます

 

 

 車の入れるムウェカゲートまであっという間に下りキリマンジャロ登山はこれにて終了。モシの町のホテルに戻り数日ぶりのシャワーとタンザニア産の「キリマンジャロビール」というイカしたビールを味わいつつ、この日の夜はしみじみとキリマンジャロ登山の幸せな余韻を味わった。

 

 

 個人的にはもう少しシンプルに登ってみたかった気もするが、現状を考えるとこのような形の登山になるのだろう。

 キリマンジャロはどこか富士山に似ているなと思う。

富士山を2回りくらい大きくしたイメージ。確かに大きく1回りではなく2回り分くらい大きい。

 

 

特にクライミング要素はなく歩けば登れるところ。ルートが何本かあり好きなところから登れるところ。ステラポイントとウフルピークという2つの頂上ポイントがあるところ。人の多さ。山頂前の渋滞。やはり富士山に似ていると思う。

 

 

 ただアフリカの広大なスケールの中を歩くことはとても気持ちが良かった。そして山で働き生きるガイドやポーターの人々はとても強くカッコよかった。

(記:林)

 

EL CHORRO(Spain)での日々

日程: 2007年10月4日(木) – 2007年10月15日(月)
山域: EL CHORRO(エルチョロ・スペイン)
参加者: Aさん(L)・坂田
行程:
第1日目: 移動
(Aさん)
KL862便成田第1ターミナル(11:30) – アムステルダム(16:20/17:50) – マドリード(20:20)
(坂田)
SU584便成田第2ターミナル(12:00) – モスクワ(17:25/19:20) – マドリード(22:25)

マドリード(バラハス国際空港第4ターミナル到着ロビー)にて合流後、空港にて仮眠。

第2日目: 移動
バラハス国際空港(5:00) – (タクシー) – アトーチャ駅(5:30/9:30) – (特急Talgo200) – マラガ駅(13:30/19:15) – (普通列車) – エルチョロ駅(20:03) – (徒歩) – キャンプ場(20:20)

第3日目: クライミング
Frontales Bajas / Amptrax エリア
・Amptrax(5+) 6p: Aさん全ピッチOS
  1p) 5 2p) 5+ 3p) 5 4p) 5 5p) 4+ 6p) 4+ 7p) 4+
・Sperpotencia(6a): AさんOS
・Mespotencia(6a+): AさんOS / 坂田RP
・Frente Judea de Popular(7b): Aさん途中まで

第4日目: クライミング / Gorgeエリア偵察
Frontales Bajas / Amptrax エリア
・Prepotencia(6a+): AさんOS / 坂田途中まで
・Frente Judea de Popular(7b): AさんRP
Caliza エリア
・Diurna(6a): AさんOS
Frontales Medias / Poema de Roca エリア
・Morritos Jeagger(7b): Aさんテンション
・Garcia Aguas(6b): 坂田テンション

第5日目: クライミング / Frontales Atlas エリア偵察
Frontales Medias / Poema de Roca エリア
・Garcia Aguas(6b): Aさんフラッシュ / 坂田テンション

第6日目: クライミング
Frontales Atlas / El Pilar エリア
・El Navigator(7a+) 6p: Aさん全ピッチOS
  1p) 6b+ 2p) 6a 3p) 6c 4p) 4 5p) 6b+ 7p) 7a+
Frontales Atlas / Escalera Arabe – Right エリア
・Dos Tetas Tiran(6b): 坂田OS
Frontales Atlas / Escalera Arabe – Left エリア
・Rock the Kasbah(7b): AさんOS
Frontales Area / Las Encantadas エリア
・La Lay del Cateto(7a): AさんRP

第7日目: クライミング
Frontales Medias / Poema de Roca エリア
・Mikita Power(6c) + Cafe Burbuscon(7a) 4p
  1p) 6c 2p) 6c 3p) 7a 4p) 6c+: Aさん1pOS/他テンション

第8日目: クライミング
Frontales Medias / Poema de Roca エリア
・Garcia Aguas(6b): 坂田RP
・Morritos Jeagger(7b): Aさんテンション(2度トライ)
Frontales Bajas / Los alberconesエリア
・Er Vuelo de Los Polues(6a+): AさんOS

第9日目: 移動
キャンプ場(9:00) – (タクシー) – アロラ駅(9:30/11:15) – (普通列車) – マラガ駅(11:51/15:00) – (Talgo200) – アトーチャ駅(19:00)

第10日目: 移動
アトーチャ駅 – (地下鉄) – バラハス国際空港
(Aさん)
KL1700便マドリード(10:40)-アムステルダム(13:15/15:20)
(坂田)
SU300便マドリード(23:55)

第11日目: 移動
(Aさん)
成田(9:40)
(坂田)
モスクワ(6:55/19:20)

第12日目: 移動
(坂田)
成田(10:00)

今回、元々Aさんと一緒に行くはずだった相方がキャンセルとなってしまったため、急遽同行を申し込んだ次第である。海外はもちろんのこと、国内でもビッグウォールの経験がほとんどない上に、クライミング能力もAさんに遠く及ばないことからユマール覚悟、Aさんと初めて会ったその場で1週間後の海外遠征を決めたという訳で、出発前から不安要素だらけだった。

それでもいざ現地に到着して見たこともない石灰岩の大岩壁を目の前にすると、これから始まる未知の世界への期待感で満たされた。実際に取り付いてみると全てが期待以上!Aさんとは気楽に接することが出来たし、クライミングに関してたくさんのことを学ぶことが出来たことも大きい。もちろん、足を引っ張ったのは言うまでもないのだが…。取り付いたこともないようなハードルートばかりで、指の痛みと腕のパンプは常態化し、日中の暑さと相まって身体的にはかなり応えたが、素晴らしい環境の中でこれほどクライミングに集中出来たのは幸せだった。

今後もさらに自分の世界を広げていくためには、クライミング能力の飛躍的な向上を果たし、経験を積んでいかなければならないことを痛感した。フォロー技術も体力も気合も根性も何もかもが足りないのだが、ますます湧き上がってくるモチベーションを武器に、これまで以上に張り切って駆け上がっていきたい。

エルチョロは、スペイン南部アンダルシア地方のリゾート都市、マラガの近郊に位置している。スペインはヨーロッパで最も岩の量が多く、エルチョロはその三大岩場の1つである。今回は2001年発行のトポを利用したが、既に800本以上のルートがあり、8a以上の高難度ルートも特にGorgeエリアに多い(10%も?)。メジャーなエリアは、Frontales(写真上:右側にまだまだ続く!)とGorge(写真下: V字谷の奥へと何kmも広がる)であるが、後者はアクセスに難があったため、今回は前者のみに取り付いた。

Img_0625 Img_0609s_2

ここは標高1200メートル弱の山の前衛壁のような感じで、高さ400m程度の壁が数キロに渡って広がっている。広大なので空いている印象を受けた。エルチョロの駅前からも眺められ、キャンプ場から60min以内にほとんどのルートにアクセス可能。15minもあれば数多くの有名ルートに取り付ける。近くのキャンプ場は標高200m、取り付きの標高は250mから580m程度。このキャンプ場はシャワー設備もあり、今回は2名1点とで93ユーロだった(カード決済可能)。気温は朝方は17度前後、日中は27度前後だと思われるが、日中の暑さは強烈で体感的には30度を超える。ただ非常に乾燥しているため、汗をかきにくく日陰は過ごしやすい。多くのクライマーが日中はレストしており、ベストシーズンはもう少し遅いのかもしれない。駅の近くにはスーパーとクライミングショップがあるが、品揃えは期待できない。ただトポはこのクライミングショップで購入可能(寄付金込みで22ユーロ)。唯一の難点は電車でのアクセスが不便なことだろう。マラガ駅からの電車は1日1本のみ、運休することもあるので要注意だ。レンタカーがあれば各クライミングエリアへのアクセスも格段に楽になる。石灰岩でフリクションはバッチリ、傾斜大。終了点を含めてボルトの状態は良い。日本よりもボルトの間隔が広くて驚いたが、ガイドによると適正らしい…。グレードは甘め。エリアによってバラツキがあるようだ。長いルートが多く、70mロープを使用しているパーティもちらほら。60m&バックロープは必須。ヌンチャクを1ピッチで16本必要だったルート(50m以上)もあり、ギア類も多めに必要。日本では情報を得にくかった(スペイン語のサイトは数多く見付かるのだが…)。

10月4日(木)

モスクワでの出発が1時間近く遅れた以外は順調だった。荷物は24kg余り。過剰分は見逃してくれた。手荷物を入れると30kgありそう。アエロフロートロシア航空は初めての利用だったが、荷物の過剰をおまけしてくれる以外は何も期待してはいけない。

Aさんと無事合流後、到着フロアーのベンチで仮眠。肘掛けが嫌がらせして体勢苦しく、何度も目が覚めた。

10月5日(金)

予定よりも1時間早くマドリード中心部のアトーチャ駅へ向けてタクシーで出発。ぼったくりの噂もあったので、メーターの予想より早いカウントスピードに落ち着かなかったが、適正料金(23ユーロ)でホッとした。タクシーは日本よりも安い。このところのユーロ高は辛いところだが…。

アトーチャ駅を7時に出る特急に乗りたかったのだが、突然の運休。驚いた。2時間、ヒマなので交代でその辺をうろついた。朝食はカフェテリアでパン+オレンジジュース+コーヒーと地元ではお決まりらしいセット。

9時発のTalgo200は無事出発。本当は新幹線のAVEに乗りたかったのだが、マラガ駅まで延長されるのはまだ先のようだ(工事は進んでいる)。でっかい機関車に牽引される上、車輪が連結部にあることやAVEの路線をそのまま走るので客車は静かなのだが古い。リクライニングもわずか。映画を上映していて、スペイン語がさっぱり分からないのについつい見入ってしまった。外を流れる景色は単調で、乾いた大地かオリーブ畑が広がる。途中、AVEから在来線へ入る時に軌道幅が変わるのだが、これがなかなか面白かった。

途中、エルチョロを通過するのだが、車窓からの馬鹿でかい岩壁に、慌ててAさんを起こして一緒に大興奮!

マラガ駅は賑わっていた。AVE開通を見越してか駅ビルも新しく、飲食店を含めて多くのショップが入っている。ただコインロッカーが満杯で使えなかったのが残念。日本と違い、Tokenと呼ばれるコインみたいなものを購入して使うようだ。取りあえず駅前のスーパー(あって助かった)で買い出し。品揃えも値段も文句なし。個人的には5時間くらいは楽しめそうだった。取りあえずレスト予定日までの2日半分くらいを購入。食事をしたのだが、Aさんの頼んだ魚がでかくてビックリ。会い分はポテト+焼き肉でちょっと物足りず。

燃料を買っていなかったことを思い出す。今回はMSRなのでガソリンを手に入れなければならない。スーパーには何も置いてないし、街中にスタンドはないという。それでも、Aさんがスタンドを探し当てゲット、感謝!

エルチョロへの電車は1日1本のみなのが不便。超ローカル雰囲気の列車にクライマーを2パーティほど見付けた。駅からキャンプ場までは15分程度と至近。ザックが買い出しでかなり重たかったのでこれは助かった。受付嬢は英語も堪能でスムーズ。シャワー設備を無料で使えるとのことで、独りはしゃいだ(Aさんは風呂嫌い)。

テントには「鵬翔」の文字。ちょっと不思議な感じだ。Img_0586s_2

明日は早速マルチ。5+と手頃なこと、頂上へ抜けられるので全容を把握可能なこと、アプローチが楽なこと、条件バッチリのルートだけに競争だろうと早起きを決め込む。装備の確認だけしてさっさと寝た。フラットな地面が快適。星は思ったほどは見えない。キャンプ場がかなり明るいせいだろうか。明るい星はかなりくっきりと光っているし、空は十分に暗いのだが…。

10月6日(土)

5:30に起きたが、真っ暗。どのテントも静まりかえったままだ。朝食を済ませて7:00出発。ヘッデン頼りに30分程ほどウロウロしたが、明るくなり始めた8:00には目的の岩場へ到着。誰も居ない。大人気には違いないとは思うのだが、登っている間も周辺に人気はなかった。日本だと週末の人気ルートの混み具合とは違うようだ。

Img_0555s_2  Amptrax(5+)、5.7くらいかと甘く見ていたが5.10aくらいあって冷や冷やしながらフォローした。Aさんは余裕。最後のピッチ、トポにはeasyと書かれていたが、4級くらいはありそうなのにボルトが1つもなかったのが印象的。他のピッチもかなりランナウトしていて、簡単なグレードも簡単ではないなぁと思った。バックロープで荷揚げをしながら登ったのだが、片足500gくらいの靴を持ってきてしまったのは反省。12:45に終了点。充実感たっぷり。裏側を歩いて下降する予定だったが、途中2ピッチほど懸垂。歩きによってエリアの全体像を見渡せたのは有意義だったが、うだるような暑さに参ってしまい、テントに戻って16時までレストすることにした。
   

自販機でコーラを購入。この1ユーロ自販機、滞在中大活躍だった。帰り道は毎日、頭の中がこの自販機で埋め尽くされるほど。

さすがは初日。16時には復活。それにしても今から遊べるとは!日本ならもう帰ろうか、という時間なのにまだたっぷり4時間もある。

Img_0589s_3 (一般的には)手頃なショートルートが午前中のAmptraxの近くにあったのでここを登ることにする。一般的には、と書いたのは自分に取ってはギリギリというか限界グレードだから。オンサイトは無理なので、AさんがSperpotencia(6a)を登ってムーブを見せてくれることとなった。ところが、左上してから終了点までとてつもなくランナウトしているということで怖じ気づき、グレードアップしてしまうけれど面白そうな右隣のMespotencia(6a+)を登ることにした。やはり難しい。もう各駅停車である。腕がパンプしてしまってRPは絶望かと思われたが、Aさんにハッパを掛けられトライ。各駅停車しただけあって勝手に体がムーブしていくような感覚になれたのは良かったが、やっぱり腕が辛い。終了点間際でもうダメかと思った時、Aさんからまたもやハッパを掛けられ無事クリップ。やったね!!

「二撃出来るくらいならまだまだ(グレードに)余裕あるよ。」と言われ、初日からの成果と合わせてすっかり気を良くしてしまった。それにしてもパートナーのハッパは効果絶大だ。良いビレーヤーの条件かもしれない。帰国したら土井さんに試してみよう(他意無し)。

Img_0600s_2 ここから更に右の大凹角へ向かって進むとFrente Judea de Popular(7b)がある。これが超々かっこいいのだ!これまで見てきたショートルートの中でNo.1を争うくらいである。これをクラック好きのAさんが見逃すはずはなく、早速取り付く。核心部に入ってからの気合いの声出しが強烈だ。クライマーの緊張感に引き込まれ、核心部ですらランナウトしていることも相まってビレーも真剣になる。残念ながら1テン。ムーブを見出したAさんは「なんだよ~。」と悔しがる。一手の我慢だったようだ。けれど結局はヌンチャクが足りずに途中で降りる羽目になったのである。何と16本ものヌンチャクが必要だったのだ。ロープも懸垂のために60mx2本。スケールが違うと思った。ちなみにこのルートは開拓当時、世界最難と言われていたらしく、当時は7b+が付けられていた。その後、7a+->7bと修正が入ったようだ。

初日から疲れ果てたが、想像以上の充実した一日に大満足である。これが後何日も続のだ。

10月7日(日)

朝はのんびりしても良いことが分かったので起床時間を7時に遅らせる。
0600
早速、昨日のリベンジFrente Judea de Popular(7b)をすべく、向かう。まずは、Aさんのウォーミングアップ。昨日RPした6a+の右隣にもう1本6a+(Prepotencia)があるのだが、これをOS。今回、Aさんのウォーミングアップのルートがちょうど自分の目標ルートとなることが多かった気がする。EL CHORROは全体的に(自分にとって)高グレードなので、ウォーミングアップとなるルートのないのが辛いところ。毎日、いきなり本番を迎えるこになる。同じルートをトライしたが、核心部をどうしても抜けられない。朝っぱらから腕をやってしまって、また午後からトライさせてもらうことにする。もちろん次はAさんのFrente Judea de Popular(7b)。これを一撃でRP。このツアーの大きな成果である。

日中は暑すぎてクライミングに向かないので(岩場のほとんどが日当たり良好)、トポを見るとほとんど7a以上だと思われるGorgeエリアを偵察することにする。このツアーのハイライトは、Gorgeエリアで迎える予定だったのだが、アプローチが鉄道の長いトンネルを抜けるか、危険性の高そうな岩壁トラバースしかないことが判明して断念。トンネルには警備員がおり、少なくとも日中はアクセス不可と思われる。以前は岩壁に桟道が張り付いていて誰でも歩けたとのことなのだが…。
Img_0613s Img_0619s

キャンプサイトがダムに面しているのだが、この対岸に日陰となっているコンパクトなエリア(Caliza)があるので行ってみた。ここではAさんだけが登り、Diurna(6a)をOS。良さそうなルートはどれもグレードが高いので、夕方からのリベンジに備えて腕を温存することにした。

キャンプサイトに戻ってランチ&昼寝。

午前中のPrepotencia(6a+)をリベンジしに行ったが、何と残置しておいたヌンチャクがなくなっていた(ほとんどAさんのもの)。海外のエリアでは残置が嫌われるとのことだったが、この短時間で持って行かれるとはビックリである。マルチを含めて長いルートが多いので、貴重なヌンチャクを盗られたことはかなり痛手であった。反省。

気を取り直して、Frontalesエリアの中でカッコ良さNo.1のPoema de Rocaへ向かった。
Img_0639s_2 石灰岩ならではの洞穴のハングに圧倒される。数多いルートの中から、まずはMorritos Jeagger(7b)にAさんがトライ。強い傾斜が長く続くため、腕がもたないのか上部では各駅停車となる。けれどムーブ自体は一発で決めてくるところはさすがだ。後はつなげるだけ。本人はそれが大変だと言っているが…。6a+の挫折に気後れが先行していたが、促されるままにGarcia Aguas(6b)へ取り付く。下部はチョコレートコーティング状態で、フットホールドを慎重に選ぶ。核心部を抜けるのにかなり粘って無事終了点へ。もう20時近く。暗くなる前で良かった。

日曜日なのでテントがグッと減る。

10月8日(月)

出発前の予定では完全レスト。「登りたくなるだろうけど、絶対レストしような!」と誓い合うように決めたのに、昨日の課題が気になって岩場へと出掛けてしまった。朝はのんびりと起きたが…。

まずはAさんがウォーミングアップにGarcia Aguas(6b)を登ってフラッシュ。ムーブを目に焼き付ける。「ランナウトしてて限界グレードだと怖いね~」に深く頷く。ほんとに怖い。けど5.11aにしては甘いとのこと。これにも同意。続いてRPを目指して登ったが、2本目のヌンチャクを掛ける頃には腕が震え、呼吸が乱れる。脇も広がってしまい、必死の状況だ。けれど寝付けなくなるくらいに散々シミュレーションしてRPやる気満々だったのでかなり頑張った。なのに核心部でテンション。悔しいが、やっぱり身体が疲れているのだ。パンプも指の痛みも身体のだるさも全然取れていない。Aさんもかなり疲れを感じているらしく、Morritos Jeagger(7b)にもトライせず、やっぱりレストしなきゃダメだということになった。

そこで、今回のハイライトとなるであろう、明日のルートの下見に行くことになった。これが遠い(1時間くらいだが)上に、なかなか見付けられない。最初は、15分くらい歩いたところの をこれだと思い込み、どう見てもグレードが割に合わないと言い合いながらこぎつけようとしたがやっぱり×。林道をひたすら歩いて最終的にはこの辺りであることは間違いない、というところでこの日は終わった。

もう食料がないのでスーパーへ買い物しなきゃ、と向かったが定休日。

10月9日(火)

いよいよ今回のハイライト、El Navigator(7a+) 6p: 1p) 6b+ 2p) 6a 3p) 6c 4p) 4 5p) 6b+ 6p) 7a+である。取り付いたこともないようなグレード群に不安たっぷり。Aさんは要らないよというが、ユマールセットを持って行く。今回はユマール支点回収も大きな課題なのだ。けれどAさん曰く、傾斜の強いところでのユマール回収はかなり技術が必要だとのこと。Aさんですらジムでトレーニングしたという。けれど技術書で予習もしてきたし、気合と根性で何とかなるはずだと思うことにする。

1p) 出だしはガバが多くて調子良かったが、核心部のフェースで早速1テンしてしまう。
Img_0687s
2p) 記憶なし
3p) 今回、一番難しく感じたピッチ。垂直くらいのすっきりしたフェース。2テンはしたと思う。
Img_0691s
4p) 短いトラバース。易しいが怖い。
5p) のっぺりした壁にフィンガークラックが走っており、印象深いピッチ。フィンガーは大の苦手だが、クラックが所々横にも走っていて、かなり助けられた。墜ちなかったが嬉しい。
6p) 7a+にびびったが、ボルトのライン取りが最悪。誰も登らないようなところに無理矢理作った感じ。結局新たに打ち直されているラインを取る(グレードダウン)。5p目まではルートもロケーションも最高なだけに惜しい!けれど最後は難しいところがあってテンション。何とか、という感じで這い上がった。
Aさんも最後のピッチに納得いかないようで、明日もう1本マルチを登ろうということにした。

帰りに、Frontalesエリアで、まだ足を運んだことのないLas Encantadas エリアへ足を運んだ。ここのルートはすっきりとした見栄えの良いものが多く、グレードも高い。自分は取り付くのを諦めたが、AさんがLa Lay del Cateto(7a)を二撃した。

今日はスーパーが無事開いていて食料ゲット。今回の食事はキャンプ期間中を通して、オリーブ油・塩・ミントティー・コーヒー・砂糖・パン・サラミ・ハム・チーズ・ライス・パスタ・カレー・ポテトフレーク・ツナ缶・魚ダンゴと豆の缶詰・コンソメスープ・野菜類、といったもので、二人分で70ユーロ程度のこれらの食材を駆使して、ほとんど全てをAさんに作ってもらった。クライミングもテント生活もおんぶにだっこ、である。

10月10日(水)

Img_0730s 疲れているので午前中はたっぷり寝た。今朝はとても涼しく、珍しく空は雲に覆われているので、日が昇ってもテントの中は快適だ。なんだかとても贅沢な生活に思えてくる。けれどCafe Burbuscon(7a) 4pのあるPoema de Rocaエリアは午後から日陰になるはずなので、このパターンは理にかなっている、はずだ。実際に日陰となるは16時頃からで、この目論見は外れてしまったのだが…。下り坂かも、思わせた雲は昼頃にすっかり吹き払われ、いつもどおりの快晴となった。

1p目は5+ということでリードするぞと気合いを入れていたが、ルートがどれなのか分かりにくい。Aさんがこれだろうと指したルートはどうも5+ではなさそうだったが、それは見た目だけだろうと思い直して登ってみた。やっぱりというか核心のハング乗っ越しがどうしても出来ない。これか~というホールドを見付けた時には腕がパンプしてあえなく敗退。このパンプが後々致命傷となるのであった。交代したAさん、登りながらこれは6cあるよ~と華麗に登っていく。取り付いたルートが違っていたのである。終了点に着いたAさんが隣にトラバース出来ることを確認してこれを登る。後々調べてみると、Mikita Power(6c)であった。Cafe Burbusconは2p) 6c 3p) 7a 4p) 6c+と続く。

この登攀は辛かった。何せAさんがテンションを掛けながら登っていくのである。傾斜があって既にパンプした腕に応えるし、ムーブも難しい。出来ることは限られており、声を出せばより気合いが入ることを学んだので、とにかく声を出した(もう滅茶苦茶)。核心の3p目は出だしが石灰岩らしい大きい柱状を登っていく。
Img_0735s

ちょうど抱きつけるくらいの太さなのだが、これが意外に曲者。外へ張り出しているので高度感もたっぷり。これを抜けるとすっきりしたフェース。細かい手掛かりを頼りにAさんに引っ張り上げてもらいながら数え切れないくらいテンションを掛けて何とか登り切れた。腕に加えて指までもがもう限界だ。最終ピッチは"wild"とトポにコメントされている通り、ハングにガバホールド。出だしの易しい緩傾斜を登ってから大きく左に回り込むようにしてハングに取り付く。ガバは嬉しく、初めの方はルートを外さないようにテンションしながら頑張れたが、核心部手前でのテンションが致命的となり、ルートに戻れなくなった。目の前の細かいホールドを頼れるほどの力はもう残っておらず、最後の手段、バックロープに1つのユマールとそれにアブミを掛けた。正式なユマールスタイルではないだけあって、これにも苦労するが、2m程を何とか持ち上げ、ルートに戻れた。終了点にたどり着けた時はホッとした。Aさんもホーリングを覚悟したという。トップに腕力を使わせてしまって申し訳ない限り。

Aさんもしきりに洗礼を受けたと言っている。このルートもことごとくランナウトしており、思い切ったムーブが出来ず、テンションを重ねてしまったとのこと。最後のピッチは腕がパンプしてしまったことも大きいようだ。それでもムーブは全てマスター出来たから次は登れると言う。さすがだ。

10月11日(木)

今日も寝まくった。倦怠感と腕のパンプと指の痛みが慢性化した身体を存分に休めた。今朝も涼しい。ここも秋が深まりつつあるのだろうか。今日はクライミング最後の日。思い残しのないよう課題を片付けなければならない。その前に明日のタクシーの予約をレセプションの人にお願いしに行った。エロチョロからの電車が、明日・明後日と運休してしまうのだ。

もうすっかりお馴染みとなったPoema de Rocaへと向かった。最後まで残ったGarcia Aguas(6b)とMorritos Jeagger(7b)を登るために。

案の定、腕はほとんど使えなかったが、三撃目とあって落ち着いて登れた。レストポイントで10分くらいは休んだと思う。核心部、マントリングする感じで乗っ越すところでは力尽きて墜ちる恐怖に襲われたが、それ以上に悔いを残すことの怖さが頭をよぎり、持ちこたえた。ようやくのRP、やったね!う~ん、日本ならまた次があると思って墜ちてたかもしれない。Img_0748s_3

続いてAさんのMorritos Jeagger(7b)。正確なムーブで何事もないかのように順調に登っていくが、被った長いルートはこれまでに蓄積されてきたパンプの取れない腕には酷としか言いようがない。大休止して再トライだ。

近くを登っていたカナダ人のパーティに写真を頼まれ、Aさんが引き受ける。筋肉隆々で真面目そうな男性と天然ボケが持ち味っぽい女性がちょうど釣り合ってそうな仲の良いカップルだ。何と休暇が20日間もあるという。日本の企業も見習って欲しい。エルチョロに来てからカップルのパーティしがほとんどの気がするが、海外では普通らしい。カップルでなければムキムキ男二人だ。日本の小川山のように大勢のパーティを見掛けることはなかった。隣の7aを登るこのカナダ人男性、パワフルなムーブをしそうな体つきなのに、とてもしなやかで落ち着いた動きだ。うまい。惜しくも最後の方でテンション。二撃目でRP。6bの良いルートがそこにあるよと勧められ、Aさんにも登れば、と言われたが意欲が出なかった。もう満足してしまって今日はもういいや、という気持ちに墜ちてしまっていたのである(ここがダメなのだが…)。

今度はAさんを撮ってくれるようお願いする。さっきよりも粘りのある動きで気迫を感じさせるが、やはり腕が負けてしまうようで墜ちてしまった。残念!連日、高難度のマルチピッチでトップを登っているのだから無理もない。
Img_0759s

次へ移動することにする。キャンプ場の至近距離にあり、毎日誰かが取り付いている人気エリア、Los alberconesを残していたからだ。6台の手頃なルートが集まっている。まだ登ろうというのだからすごい。Er Vuelo de Los Polues(6a+)をOSで今回のツアーを締めくくることとなった。

エルチョロ最後の夜を迎えた。シャワーを浴び、テントへ向かいながら充実感に浸った。

10月12日(金)

タクシーが予定通り9時にやって来たことが驚きだ。アロラ駅へ30分程で着き、20ユーロを支払った。メーターはなく、定額制のようだ。電車の時刻表を見ると11時15分までない。マラガ駅から13時の特急に乗るつもりだったが既に満席。次は15時だという。移動にやたらと時間が掛かる。15時の特急も混雑しており、往路とは大違いだ。金曜日から週末なのだろうか。マラガ駅に着いたのは19時だが、まだ明るいのがありがたい。ホステルを探さなければならないからだ。ここでもAさんのスペイン語が大活躍で、看板のある雑居ビルのインターフォンを片っ端から押し、アトーチャ駅間近の宿に二人で35ユーロで泊まることが出来た。

ホッとしたところで久しぶりの都会をうろつき、最後の日くらいはレストランで食事をしようと入った。まだ食べていないパエリアがいいかな、と話していたのだが、入ったところは南米系。「こんにちは。」と話すウエイターに驚いたが、「上海から来たのか?」と尋ねられたのには笑った。「こんにちは」を中国語と思っていたのだろうか。そう言えば今回は中国人に三度も間違われた。中国人に「ニイハオ」と声を掛けられ、そんなに中国系の顔をしているのかなー?取りあえずビールで乾杯。実は日本を旅立って初のアルコール(!)。クライミング中はコーラがアルコールの代わりだったのだ。食事はボリュームタップリ!大好きな目玉焼きが二個も添えられていてすっかり上機嫌。スペイン語が読めずに適当に頼んだ料理が大当たりで、とにかくガッツリ食べたがっていた身体は大喜びだ。Aさんのペルー遠征の話しを聞き、ますます行きたくなった。5年くらい有給取って世界中をフラフラ出来たら良いのに。このレストランでのちょっとした出費を覚悟したのだが、1人当たり10ユーロで済んだ。やはり地元の人しか居ないようなレストランは安い(日本円に換算すると高いが)。

10月13日(土)

早朝7時、まだ誰も起きていない中を出て行き、RENFEの近郊線に乗り、空港へと向かった。KLMとアエロフロートはターミナルが違うので降りる駅も違う。Aさんとはここでお別れだ。

日本へ着いたのは15日(月)10時。特にモスクワ空港での半日は退屈過ぎた。店は少ない、ユーロが使える店は驚くほど高い、寒い(甘く見ていた)、大雪で遅れるといった感じだ。

今回の遠征は楽しく、とても充実していた。そしてAさんのお陰でとても勉強になったし、自分に足りない物を自覚することが出来た。それにクライミングへのモチベーションがますます上がった。日本にも手をつけていない大岩壁がたくさんあるので登り倒したい。ハードルートには打ちのめされたが、得られた物は無限にある。これらを鵬翔にも還元しつつ、自分のクライミング能力を高めたい。そして、このアルパインクライミングの素晴らしさをみんなに味わってもらいたい。

(記: 坂田)

all Path Crossingボールパス・クロッシング

2004/3/29(月)~30(火)

単独:掛川義孝

マウント・クック国立公園に前日到着し、テントサイトに駐車して車の中で一夜過ごす。周囲に氷河を抱いた山々に囲まれたマウント・クック村からはクックが良く見えた。翌朝29日晴れ。朝8:30にDOCに行き、ガイドブックに紹介されていた、キャロラインハットの宿泊を予約しようとしたら、そこはアルパインレクリエーションという会社が所有している施設なので、その会社のガイド付のツアーに参加しないと泊まれないと言われた。代わりにDOCの人からテントを張れる場所を教えてもらう。それでガイドブックに紹介されていたコースとは逆のルートで行く事になった。今回のルートはアイゼン、ピッケルが必要で、靴も僕のトレッキングシューズではアイゼンが装着できないのでプラスチックブーツが必要だった。クック村にある、アルパインガイドというガイド会社でアイゼンとプラブーツをレンタルした。一日アイゼンが8ドル(560円)、ブーツが12ドル(840円)で2日間借りることにした。ピッケルは中古のアイスアックスがストラップ付で120ドル(8400円)で売られていたので、ちょっと気持ち悪い気も一瞬したが安いので、買ってしまう。アルパインガイドの中庭に車を置かせてもらい、10時に出発する。天気はよく、フッカー氷河に向かうトラックには日本人観光客が多かった。年配の人や若い女の子と時々短い会話をしながらのどかなハイキングを楽しむ。途中にマウント・クック国立公園で亡くなった人達の慰霊碑が、クックを正面に望む高台にあった。50メートルぐらいの長さのつり橋を渡る。川は上流の氷河から灰色に濁ってごうごうと流れていた。2番目のつり橋のところでフッカーヴァレートラックをはずれて、橋を渡らずに川沿いに進む。狭くてあまり足場が良くない川沿いの崖をしばらく行き、右手の山が崩壊

した岩雪崩の上を歩いていく。最初は時々ケルンを見かけたが、そのうちルートがわからなくなった。とりあえず、歩きやすい道を探して進む。傾斜の急な斜面もあり気が抜けなかった。対岸の氷河湖で遊ぶハイカーが小さく見えるので、ずいぶん離れているんだなと判る。氷河湖を過ぎた、広い扇状地が今日のキャンプサイトだ。対岸にはフッカー小屋がある。ガイドには3~4時間とあったが、ガレ場の通過に時間を食って3:45に着く。6時間もかかった。明日は予定では10時間行動であるが、このペースだと12時間ぐらいかかるかなとすこし心配になる。ルートがいまひとつ確信がもてなかったので、明日登ると思われるガリーの下見に出掛けた。ガリーは上部で左に屈折しており、先が見えなかった。できれば屈折点まで登り、上部にぬけられるかどうか確かめたかった。ガリーはガレ場の急斜面で、足元が崩れて歩きにくかった。100メートルぐらい登ったら、顕著な踏み跡を見つけ、ルートに確信が持てたので、引き返す。夕方マウント・クックが夕焼けに染まる様子を楽しんだ。キャンプサイトのすぐ下は氷河があり、こんなに近くで見るのは初めてである。夜は月がクックの左肩に昇っていた。

3月30日

晴れ。8:15出発。ガリーの上部にはスノーブロックが残っていた。周りの岩にはつららが垂れ下がっている。2時間程でガリーを抜ける。そこにはMt Mabelの直下のPlaying Fieldという台地がある。何か話し声が聞こえると思ったら、右の上の方に二人組の登山者を見つけた。DOCではこの一帯は貴重なもろい植生なのでテントを張らないでと言われたのだが、彼らはここに幕営したのだろう。とにかく、他に登山者がいるのは心強い。ルートファインディングにも苦労しなくてすむかと思った。ここからは大きなZの字を描くようにして上部に行き、それから山腹をトラバースしてボールパスに向かう。彼らのいた所に着いた時は既に彼らの姿は遠く、ボールパスへの登りに差し掛かっていた。そこにたどり着くまでのルートファインディングに少々てこずりながらもボールパスの上り口に着いた。ここからボールパスまで500メートルぐらいは硬くクラストした雪面を行くので、ここからアイゼンをつける。右の露岩沿いに登って行く。アイゼンがよく効いたが、滑落したら下の氷河まで1000メートル以上落ちていくので緊張する。13:00ボールパスに着く。風もなく、いい天気だ。だがのんびり景色を楽しむ余裕はなく、急いで下山する。クックの真下にはキャロライン氷河があり、時々ごーという音がして雪崩が落ちていった。大体11時頃から頻繁に雪崩れるようだった。遠くから見るとたいした量の雪崩でもない割りに音が大きいのは周りの岩壁に反響するせいだろうか。15:00キャロラインハット着。この先で10人ぐらいの団体の登山者に会う。先頭の人がアジア人だったので日本語で話しかけたらやっぱり日本人だった。彼らはクライストチャーチでアウトドアのことを学ぶ専門学校に通っている人たちだった。その後に今度はガイド付の登山者のグループに会う。ガイドの女性と色々話が出来て、クックに詳しいガイドの名前を教えてもらう。そこからボール小屋までは尾根沿いに下っていき、18:00に着く。先に歩いていた二人組の登山者がいた。彼らのルートファインディングはうまくて、安全なところを選んでいたので、きっと経験者かガイドだろうと思っていたのだが、リードしていた女性はアウトドアのガイドをしている人だったので、納得した。本当はここで一夜過ごして行きたかったが、2日間の約束で靴とアイゼンを借りていて、今晩中に返さねばならなかったので先を急ぐ。タスマン氷河沿いのトラックをひたすら歩く。19:30過ぎには日も暮れたが、月が出ていて結構明るかった。20:30駐車場に着く。こんな夜中に誰もいないと思っていたのだが、運良くマウント・クック村の人が車をデポしに来ていて、ヒッチできた。もし、彼らに会わなければ、更に2時間歩かねばならないところだった。おかげでクック村に21:00前に着いた。

コースタイム : 3/29 Mount Cook village 10:00 ~ Camp site 15:45

3/30 Camp site 8:15 ~ Playing field 10:30 ~ Ball path 13:00 ~ Caroline Hut 15:00 ~ Ball Hut 18:00~ Blue Lake Car Park 20:30 ~ Mount Cook village 20:45

(記 掛川義孝)

ローリング・ライアンリバー遡行記 ニュージーランド

2004/3/16(火)~22(月)

単独:掛川義孝 

Roaring Lion riverとは、咆哮する獅子の川という意味である。場所はニュージーランドの南島の北西部 Kahurangiカフランギ国立公園にあり、Karameaカラメア川の一支流に属する。僕は、日本で沢登りのガイドブックに紹介されていて、その存在を知った。行程は長いが基本的にザイルは使う必要はないようで、しかも釣りが楽しめそうだ。今回南島の旅行の最大の目的はこの川の遡行であった。ガイドブックには「技術的には2級、総合的には4級。未知なものへの経験が必要」と書いてあり、未知への経験とはなんか矛盾しているような気がした。ニュージーランドでは、新聞によくアウトドアでの事故や救助に関する記事が出てくる。そういう記事にはニュージーランド人kiwiがからんでいるものもあるが、外国人がからんでいるものが多い。特にMt Cook辺りで起きる事故はほとんど外国人が起こしている。そういう記事を見ると、こちらの人はまた外国人が無茶なことをしてという目で見る。実際、忠告を聞かなかったり、不完全な装備やいい加減な計画が原因での事故も多い。一種の警告の意味でもあるのだろうが、新聞で厳しい口調で批判されているのを読むたびにローリング・ライアンに行くのをやめようかなと何度も考えた。万が一遭難でもした

ら、僕のホストファミリーにもとても迷惑をかけることになるし、せっかく知り合いになった町の人にも会わせる顔がない。そんな時、かみさんが日本から送ってくれたビデオを見た。NHKで放映された、「幻の大滝」という剣大滝のビデオだった。それを見ていたら、なんだか俄然やる気が沸いてきて、やってみる決心がついた。

もともと日本を出るときは、やる予定はなかったし、そもそも南島に行くつもりすらなかった。今回のニュージーランド滞在の目的は一応英語を学ぶということで、観光旅行をすることではないと思っていた。それでも何故かローリング・ライアンリバーの遡行の部分だけはコピーをとって持ってきていた。2月にニュージーランドにやってくる妻にツェルトとエアーマット、20メートルの8ミリ補助ザイル、コッヘルセット、ガスコンロのヘッド、コンパス、冬用の下着、手袋を80リッターのザックに入れて持ってきてと頼む。雨具は自分で持ってきていた。寝袋はこちらで知り合いに借りるつもりだったが、ガスのカートリッジを買おうと地元のアウトドアショップに行ったら、

面白いものを見つけた。それはシュラフカバーみたいなもので、綿もない一見ただの頑丈そうなビニールの袋だが、防水性と透湿性を備えており野外でテント無しで寝るためのものだった。値段も75ドル(6000円)程度と安く、これなら日本でも使えるだろうし、かみさんもそれなら文句は言わないだろうと思った。地図は、Auckland オークランドで、map centerというところで揃えた。ニュージーランドには全国土をカバーしているのは5万分の1の地図しかない。カラーで、一枚15ドル(1000円)とけっこう高い。それでも今回の山行のエリアをカバーするために、地図を4枚購入した。足はレンタカーを借りることにし、これはインターネットで探して電話で予約した。

3月15日

滞在先のオハクネからバスでウェリントンに向かう。オハクネには一日1本しか町を出るバスがない。8時頃ウェリントン着。翌朝8時のフェリーで南島に渡る予定で、この日はウェリントンのバックパッカーに泊まる。バックパッカーというのは、ダブルベッドやシングルベッド付の部屋もあるが、主にバンクという2段ベッドでシェア(4人部屋)かドーム(10人部屋)がメインの安い宿のことで、トイレ、シャワー、炊事場を共同で利用する。大体メンバーになると一泊20ドル(1500円)前後で利用できる。メンバーになるといっても40ドルでカードを購入し、自分の名前とパスポートナンバーを裏に記入するだけである。これは20ドル分のテレフォンカードでもあり、10泊すれば元がとれる。同じような施設にユースホステルがある。値段もほぼ同じだが、バックパッカーは場所によって当たりはずれがあるのに対し、こちらはほぼ高いクオリティを備えている。ただ、バックパッカーはどんな小さな町にもあるが、ユースは数が限られている。そのため、予約も取りにくいとも聞いていた。12月から3月はハイシーズンでもある。今回の旅行ではどこでも宿をとれるようにバックパッカーを利用することにした。

3月16日

ウェリントンは小雨だった。前日4人部屋に泊まったが僕以外は全て女性で、こいつは幸先がいいぞと思ったのに、南島に渡って雨だったらどうしようと不安になった。8時に予定通り出港し、約2時間ちょいでピクトンという町に着く。南島は晴れていた。ここで11時から車を借りるようにしていたのだが、レンタカー会社のオフィスに行ったら今、車を手配しているので1時間後にもう一度来てくれと言われた。僕もすっかりこの国のペースにはまってしまったのか、根がのんびりしているせいか、別に頭にくることもなく素直に、はいと言って行こうとしたら、実はキャンピングカーが一台キャンセルになったのだが、よかったらそれを使わないかと言う。もちろん同じ金額でだ。僕はカローラの2ドアタイプのエコノミーカーという一番安いクラスの車を予約していた。僕は是非使いたいと喜んで彼女の提案を受け入れた。時々日本人に対してすごく親切な人がいる。子供が日本語を勉強してるとか、友人もしくは家族に日本人と結婚した人がいる、日本にいったことがあるとかの理由で日本人に対して親近感を持っているのだろう。逆に日本人が嫌いという人もいると思うが、幸い僕はまだ会ったことがない。

1時間後に来たキャンピングカーは白のタウンエースだった。後部のシートをはずしてマットが敷いてある。大人二人は十分横になれる。おお、久世の車がこんなところで第二の人生を歩んでいたのかと感激した。中にクーラーボックスもある。僕は見積り通り一日38ドル(約3000円)で24日間のお金を払って、12時にピクトンを出発した。今日は入山口のコブ湖まで行く予定だ。その前に、モツエカという町でDOCに行き、川と、天気、途中のルート状況などを確認し、途中で宿泊する山小屋のチケットを購入し、予定を報告しなければならない。それと、スーパーで食料の買出しと、どこかで釣りのライセンスを手に入れる必要があった。ニ

1980年パタゴニアフィッツロイ山群の記録

 古い記録ですが、1980年のパタゴニアの記録を紹介します。
 写真はフォトアルバムにあります。Image19

パタゴニア登山隊報告
 1979年11月15日~1980年3月20日
 メンバー L 岩永慎太郎(33期)井上 茂(35期)轟 哲之(35期)
〔記:岩永慎太郎〕
 1975年11月15日~1980年3月20我々はヨーロッパでの登攀を終えるとパタゴニアのフィッツ・ロイ山群へ向かった。目的は、セロ・トーレ氷壁登攀であったが、船便の荷物の遅れと悪天候のため、セロ・スタンダルトの試登に終ってしまった。
 パタゴニアは、南アメリカ大陸のリオネグロ以南の広大な地域の呼び名で、アンデス山脈の西と東に分けて、チリとアルゼンチンにまたがっている。フンボルト寒流の冷たく湿った空気が南西からこの山脈に吹き付けるので、西側のチリでは降雨・降雪が多く大陸氷床が広がり、樹木も点在する人家の周囲しか見ることが出来ない。パタゴニアは南にいくほど天候が悪くなりマゼラン海峡付近では年に3・4日ほどしか晴天の日がなく、風速20m以上の風が絶えず吹き荒れている。
 その最南端49度付近、南氷床と呼ばれる地域にフィッツ・ロイ山群がある。南西風と氷河に磨かれた、鋭く尖る岩峰の頂には絶えず吹きつける強風と湿雪のため巨大なマッシュルームと呼ばれる氷塊が付着し、荒天の後には垂壁やオーバーハングもこ氷で覆いつくされる。
 この山域では、過去にアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本などの強力なパーティーが登攀を試み、ポピューラーなフィッツ・ロイは7本のルートが開拓されている。西側に位置するセロ・トーレはコルコンクエストからの初登攀以来、西側より二回それと前後して東南量より同じく2回登られた。また、隣のトーレ・エガーは、1981年3月末、昨年に続き2回目の挑戦で2人のイタリア人がと東面から完登。今回私たちが試登したセロ・スタンダルトは、2人のイギリス人により既にトレースされている。
 この岩峰は標高差約900m、ルートは大きく3つの部分に分かれている。最初の400mがセラックの乗越し、そして右端のコルまで突き上げる急峻なクーロアールの登攀、そこからスラブを左上しランぺ状の氷田へ出る。ここまでが300m。最後に200mあまりのスラブが頂上へ続く。その上にまた氷のマッシュルームが聳えているが、これはまだ登られていない。初登攀は頂上直下の肩にトップが達しただけである。
 私たちは、キャンプ場からフィッツ・ロイ川に沿って8キロほど遡り、トーレ湖の手前の森にBCを設営した。ここに食料を上げ更にトーレ氷河をつめ左岸を登ったガレバにある岩小屋をABCとした。
 だが、1月から2月は晴れた日が5・6日しかなく、その晴天も2日とは続かなかった。2回のアタックを行ったがヒエロコンチネンタル〔氷床〕を望める右端のコルに達しただけで下降を余儀なくされた。
 この山域ではポピュラーなフィッツ・ロイのアメリカン・セロトーレのマエストリのルート以外は残地ハーケンも少なく、多数の各種ピトンが必要となる。また、外見以上に氷の発達が著しく、悪天候の登攀を強いられるため東面西面にかかわらず氷対策を充分に取る必要がある。
 セロ・スタンダルトも複雑に氷が付着していた。今後、3000mはあるフィッツ・ロイ西壁、2000m近く垂直にそそりたつセロ・トーレの南東壁が登山者の課題となろう。

 (行動記録)
 1979年11月15日 アルゼンチン・に着く。
            ※ 12月上旬入山予定が船便の遅れのため、ブエノスアイレスで待機
 1980年 1月11日 リオ・ガジェーゴスに軍の飛行機で向かう。
       1月19日 リオ・ガジェーゴスより軍のトラックで麓のキャンプ場(LagoVIEDMA)に到着
※ 入山が遅れたため、セロ・トーレ西壁からセロ・スタンダルトに東壁に変更する。
24日 森林限界のトーレ湖脇の森にBC設営 
※ 悪天候が続く。
2月17日 午後岩小屋(ABC)を出発。70度の氷壁を登りコルにてビバーク。
2月18日 無情にも暴風のなか、下山。BCまで戻る。
2月25日 全ての登山活動を終了。軍のトラックでカラファテに向かう。
3月 2日 カラファテから飛行機にてリオ・ガジェーゴスへ到着。
3月 8日 軍の飛行機にてブエノスアイレスへ
3月21日 ニューヨーク経由で井上・轟帰国
4月20日 岩永残務整理を終えて帰国。